後世の書では、660年の百済滅亡から663年白村江の敗戦までの戦役を「百済を救うの役」(日本書紀)と表現し、歴史学上でこの一連の戦役を百済救援の役、百済の役と呼んでいる。
軍事面でいえば、倭は数万の軍隊を渡海させるが、この大兵力を一気に有効な場面に投入するのではなく、小だしの出兵と焦点を絞りきれない行動という戦略・戦術の未熱さが不審に映る。
百済は、313年、高句麗が晋(西晋)の楽浪郡・帯方郡を滅亡させた後、旧帯方郡域を治め、はじめて史上に登場する。
475年の高句麗の攻撃による一時滅亡、その後の熊津遷都による復興、さらに538年の泗批遷都と、高句麗の南下にともなって百済は首都を南遷し、新たな土地の支配を安定させていかねはならず、その国家経営には課題が山積していた。
そうした中でさまざまな人材の確保がはかられ、「百済の人の中には、新羅・高句麗・倭などの人々が雑っており、それにまた中国人もいる」(隋書)とあり、百済の宮廷の複雑な構成がうかがえる。
554年、聖明王が対新羅戦で敗死し、新羅が加耶地域を併呑すると、百済にとっては軍事力の増強と旧加耶地域の奪取が国政の最優先の課題となった。
660年の百済滅亡に関しては、『日本書紀』では、「君の大夫人の妖女無道にして、擅に国柄を奪い、貿良を謀殺するによりての故に、この禍を招けり」と評し、義慈王の王妃が政治に介入し賢臣を排除・殺害したことが国政を混乱させたとしている。
660年3月、唐は左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大管に、太宗武烈王の次男金仁問を副大管に任じ、左驍衛将軍劉伯英ら水陸13万の軍を率いさせ、また新羅王を嵎夷道行軍管に任じ、唐軍は海上から、新羅は陸上から百済を攻撃し、水陸二方面の進軍をおこなって百済の王都を撃破するというのが唐・新羅連合軍の作戦であった。
百済滅亡直前まで、倭国は国際情勢の変化に対しけっして敏感ではなかったが、百済復興運動を推進する鬼室福信らから支援要請が届くと、即座に百済救援を決定し、660年12月には斉明大王が自ら難波に行幸して、百済の役の前線基地となる筑紫におもむく準備を進めている。
そして、661年正月6日に「御船西征し、始めて海路に就く」とあり、いよいよ倭国をあげての百済救援が開始されることになる。
しかし、661年7月、斉明大王は朝倉官で死去し、以後、中大兄皇子が皇太子のまま称制という形で大王位を代行し、百済の役の指揮をとることになる。
663年8月、倭国は白村江の戦で大敗を喫した。
ここに百済は完全に滅亡し、倭国はそれまでの朝鮮半島との関係に終止符を打ち、倭人の居住地は列島内に収束していく。
それは境域の確立と同時に、後に日本と国号を改める倭国の新しい国家建設のはじまりでもあった。
白村江の敗戦によって百済から渡来した大量の亡命人を迎えた倭国が、まず唐・新羅の侵攻に備えて、防衛施設の整備に励んだ。
しかし、白村江の戦を主導した天智大王死後、672年の壬申の乱に勝利した天武天皇の代になると、むしろ新羅にならって急速な唐風化が進められ、律令国家というシステムの導入はみごとに実現し、701年の大宝律令の段階で一応の達成がみられた。
一方、白村江の戦以後、朝鮮半島における唐と新羅の戦争、新羅の勝利による唐の勢力の駆逐があり、また唐と対抗する新羅が日本に「朝貢」し、朝鮮諸国に対する日本の「大国」としての体面が保たれ、日本の外交方式は変更を迫られずにすんだ。
このことが、2つの対唐観の成立や文物の獲得を主とする遣唐使の派遣、また朝鮮諸国に対する主観的外交観の保持を可能にし、外交体質や国際情勢の把握の仕方の面では、変革がおこなわれないままとなった。
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- 2012/02/16(木) 19:01:03|
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