護法山と号する天台宗の問責寺院で、春の枝垂桜と秋の紅葉が美しい山科の名刹として知られている。 寺伝によれば、大宝3年(703)に上京区の相国寺の北に創建された出雲寺が起こりと伝えられ、延暦年間(782~805)に最澄(伝教大師)が自ら作った毘沙門天を安置したことから、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。 平安末期以降、天海とその遺志を継いだ弟子の公海により、江戸時代の寛文5年(1665)に現在地に再建された。その後、後西天皇の皇子・公弁法親王が入寺し、以来、皇族や摂関家の子弟が門主を務める「門跡寺院:となった。 正面の宸殿は後西天皇の旧殿を賜ったもので、狩野益信の筆による、見る角度によって目や顔の向きが変わる「天井の龍」や、逆遠近法で描かれた「九老之図」などの襖絵が有名である。 その奥には晩翠園と名付けられた池泉回遊式庭園がある。 京都市 |
人皇101代後西天皇がこの地に行幸せられ、橋より上はさながら極楽浄土の様な清浄華麗な霊域であると感嘆せられ、極楽への橋「極楽橋」との勅号を賜はつたもので、明治以前までは如何なる高位の人といえどもこの処で下乗され参拝されたのである。 |
毘沙門堂は、護法山出雲寺と号する天台宗の門跡寺院である。建久6年(1195)、平親範が平等寺、尊重寺、護法寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したのに始まる。中世後半には荒廃したが、寛文5年(1665)には公海が現在地を寺地として幕府より賜り、さらに元禄・宝永年間伊は公弁が寺地の整備を行い、今日のような寺観に整えられた。 本堂は将軍家綱が大檀越となり、また紀伊と尾張の徳川家からは材木が寄進されて、寛文6年に竣工した。全体に漆塗や彩色、彫刻が施されて、豊かな装飾に特色がみられる。 本堂の前方に建つ唐門、仁王門は共に本堂と同時期のもので、和様と禅宗様が混合した特徴的な手法で一貫し、日光東照宮の諸建築に通じる雰囲気を持っており、畿内では他に例があまりない。仁王門西方の鐘楼は、様式上17世紀後半のものと考えられる。これら寺院としての施設に対して、境内の西寄りには宸殿をはじめとする門跡の住居施設が並ぶ。宸殿は、17世紀末の造営になる六間取方丈型平面の建物で、西面に使者の間と玄関が接続する。各室は金碧障壁図(京都市指定・登録有形文化財)で飾られ、なかでも北東隅の帝鑑の間は上段となって背面には2間の床と1間の棚を備え、南の四愛の間を次の間としている。また、この前方に建つ勅使門と薬医門は18世紀初期の造営になる。 毘沙門堂のこれら一連の建築群は、近世門跡寺院の景観を伝えるものとして貴重であり、昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。 京都市 |
山科毘沙門堂は天台宗にして、御寺務は法親王なり。本尊は毘沙門天の立像にして、開基は伝教大師なり。 |
Author:bittercup
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