日本という国を考えるとき、天皇の存在を抜きにして語ることはできない。
天皇という称号の成立した時期を推古朝あるいは天武朝とする見解があり、推古朝と天武朝とのへだたりは60~70年ある。
養老2年(718)の養老儀制令に「天子。祭祀所称。天皇。詔書所称。皇帝。華夷所称。」とある。
天皇の意義については、中国の三皇説と道教の天帝説があり、三皇は中国の古代伝説上の三帝王を指す。
しかし、「天皇」号を『史記』の「天皇・地皇・泰皇」によったことは疑わしいとするのが私見である。
『日本書紀』で「天皇」を指示する意味で「天子」を用いているのは、履中天皇五年十月条・顕宗天皇二年八月条・継体天皇元年二月四日条・安閑天皇元年七月一日条の4例であるが、安閑紀以降に「天子」の表現をみない。
おそらく、ある時点で国王の公式称号として、養老儀制令のごとく詔書に用いる「天皇」をもって定めるとなったと考えられる。
「天皇」号に本格的に論及したのは津田左右吉氏で、『日本上代史の研究』では「天皇」号が推古朝に始まるという。
「天皇」という称号の由来は、津田左右吉氏も説いているように中国道教の最高神天皇大帝によるものであろう。
その道教の世界観の形は八角形で表される。
飛鳥に宮をおいた舒明、皇極、天武、持銃、そして大津京の天智、藤原京の文武さらに草壁皇子の陵墓が八角形の平面図を描いていることと関係がありはしないか。
鮮明天皇(押阪陵)・皇極(小市岡上陵)・天智天皇(山科陵)・天武・持統天皇(大内陵)・文武天皇(檜隈安古山陵)・草壁皇子(束明神古墳)
これらはいずれも八角形墳であって、その八角形の形が道教に由来することは「天皇」という称号とあいまって否定できないであろう。
それならば、舒明朝の頃に「天皇」という名称が意識されていた可能性はあると考える。
従って、推古朝に天皇号が使われたことはあり得ないとしても、舒明朝、遅くとも皇極朝には非公式には使われていたと想定している。
斉明陵の墳形が八角形であること、墳墓名が『日本書紀』天智紀六年二月条に小市岡上陵に葬られたとする記事から、明日香村越の牽牛子塚古墳の可能性を記しておいた。
そのことを実証するかのように、平成22年(2010)9月に牽牛子塚古墳の発掘調査が明日香村教育委員会によってなされ、斉明天皇陵が確定的であると発表されるにいたった。
発掘調査において、7世紀後半であるという年代が確認され、墳丘のすそのの部分と外周に敷かれた石の一部分が正八角形であることが判明した。
墳丘の規模は、底面が対辺約22mの八角形で、墳丘は土を押し固める段築工法でつくられていた。
斜面の部分は、石を敷きつめた装飾風で、墳丘の高さは4.5mをこえるという。
墳丘の周囲は、凝灰岩を直方体状に加工したものが整然と並べられていた。
『日本書紀』天智六年二月条に、斉明女帝の妹、間人皇女(孝徳天皇の皇后)をも合葬したとあるが、それに符合するように、石室は、巨大な凝灰岩をくり抜いて横口式石概が2室つくられていた。
その規模は、東西約3m、高さ約2.5mを計る。
間違いなく斉明天皇陵と判断してよいと思われ、『日本書紀』の記述に従えば、墳墓は斉明天皇の皇子である天智天皇の意図によって構築されたとみて間違いないであろう。
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- 2012/03/31(土) 07:00:07|
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産業革命以前のヨーロッパや日本の江戸時代以前の人々は、自然界の生産能力の範囲内で食料や生活に必要な物資を調達し、自然界の浄化能力の範囲内で廃棄物を処分してきた。
まさに循環型の社会を営んできたが、近代になると、自然の生産能力を上回って資源を使うようになった。
微生物が数億年かけて生産した石油を、現在の人類は百年程度で使い切ろうとしている。
さらに、使った資源のあらかたが廃棄物となって、自然の浄化能力をはるかに上回る勢いで出ており、様々な面でひずみが出るのは当たり前である。
地球温暖化問題も自然界の浄化能力を超えて二酸化炭素という気体廃棄物を大気中に放出した結果に他ならず、持続可能な社会から大きく外れてしまったのが現代だといえる。
現在の原子炉の安全思想は、止める、冷やす、閉じ込めるという三段階の概念で成り立っているが、深い安全性を追求するには、「止める、冷やす」という能動的な考え方を、「止まる、冷える」という受動的な思想に変更することである。
異常な高温を検出してポンプが水を送り込むシステムより、高温で溶ける容器に水を入れて炉の上部に設置する方が、深い安全性を実現したことになる。
すべてを太陽などの自然エネルギーで賄うべきだが、それまでの移行過程の資源として残されるのはプルトニウムの利用、つまり核燃料リサイクル路線の確立しかない。
社会と親和性の高い原子力技術が備えるべき条件は、生産地・消費地問題に凝集されているように思われる。
大都会では土地価格の関係もあり、ビルの地下とか脇の空き地に設置できることが望ましく、必然的に小型で、分散発電に適した炉ということになる。
分散設置されることを考えると、需要に応じて自動的に炉の出力をコントロールでき、無人運転も可能な技術が望ましい。
もし、大出力の発電所が発電を停止したら、送配電網全体に大きな影響が出るが、全体の送配電量に比べて出力が小さければ、送配電網に与える影響は小さく、小型・分散ということ自体がメリットになる。
小型炉の最大の特色は安全性にある。
第一の安全要因は構造の簡単さと部品点数の少なさである。
100万キロワットを1基の原子炉で1年間発電した経験時間は1年に過ぎないが、1万キロの炉100基で発電すれば経験時間は100年分に相当し、経験が積み重なり、歩留まりよく、しかも信頼性の高いものが作れるようになる。
そして、小型炉の一般的特色の一つは、炉心に入れる燃料の少なさである。
炉内の放射性物質が少ないということは、被害が危機管理システムの想定範囲内で済む可能性が高いことを意味している。
現在、地球の総人口は60億人で、その内の25%が先進国に住んで、総エネルギーの75%を使っている。
もし、途上国の人が先進国なみにエネルギーを使うとすると、世界のエネルギー需要は3倍に増える。
その上で世界の総人口が100億人となり、先進国なみのエネルギーを使うと、需要は現在の5倍程度になる。
省エネルギーと自然エネルギーをうまく使うことが非常に重要になる。
小型原子炉の技術を発展させると同時に、省エネルギーと自然エネルギーに関する技術を進めることが、移行過程をより容易にし、将来の世代が平和に暮らすことにつながる。
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- 2012/03/30(金) 07:00:10|
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ブータン4代目国王ジクメ・センゲ・ワンチエク国王が、1976年のコロンボ会議で、国民総幸福度(GNH)は国民総生産(GNP)より大事であると発言してから約40年近い年月が過ぎた。
ブータンのGNHコンセプトは、持続可能で公平な社会経済開発、自然環境の保護、伝統文化の保護、良い統治の4つの柱をもっている。
これらをベースにGNHを測定し、高いレベルを構築および維持しようとする試みである。
良い統治に関しては、優れたリーダーシップをもつ人材と透明性を持った統治構造が必要で、この点に関しては恵まれているのではないかと思う。
自然環境の保護と伝統文化の保護に関しても、隣国であるネパールの経験をしっかり学び、森林を60%以上維持し、ゴとキラといった伝統衣装の義務化といった一連の文化保護政策は、きわめて高く評価することができる。
最も気になることは、持続可能で公平な社会経済開発のことである。
実際に現地に行き、格差社会問題の視点からみると、王族と庶民の構造ではなく、富裕層と庶民層の構造のように見えてきた。
ブータンのホテルで働いている従業員の月収は、3500ニュルタム(約7000円)から4000ニュルタム(約8000円)だという。
ブータンで人気の高い職業は、公務員、教師、観光産業就労者の順である。
一般的に言われている給与レベルは、公務員が年間7~8万ニュルタム(約16万円)、教師が4~5万ニュルタム(約10万円)、観光産業就労者が3~4万ニュルタム(約8万円)である。
ただ公務員の場合、職位が高くなれば10万ニュルタムをはるかに超え、実際どれほどなのかわからないことが多い。
これらの職業の給与レベルが、社会的ステータスに多く反映され、多くの人々は国家公務員と教師を目指してがんばり、子供の教育に熱を上げるのである。
国家公務員と教師の仕事を得るためには、王立ティンプー大学や、外国留学が必要となる。
だから、多くの若者が外国大学の留学を願っているが、親の経済力が子供の将来に影響をかけるような世代世襲が起きている。
庶民層と富裕層を区分けするわかりやすいシンボルが自家用車の所有で、ホンダのフィット(140万円)、最も安いタタモーターズ(90万円)といったコンパクトカーが街を走っている姿を目にできる一方、富裕層では現代のサンタフェという四駆の高級車が人気だ。
トヨタのランドクルーザープラドは政府の公用車で、現地の道路状況から四駆車両の人気が高いのは理解できるものの、すべての政府機関公用車車両がこれほど高価な高級車である必要性に疑問がのこる。
高級公務員は外出する際、誰が見てもその身分をわかるように、特別な色をもちいた服装を身につけるようになっている。
お互いのことが比較的わかりやすい人口の少ない小規模なコミュニティーの中で、質素な生活と公平感というチベット仏教の教えを持つ社会として、なぜここまで明らかな外見による身分の区別が必要なのかと疑問がのこる。
経済的しあわせと社会的しあわせのバランスをとろうとしているGNHコンセプトと一連の経済政策は、格差社会という点からここ数年間のプロセスをみると、より拡大しているのである。
これこそ、ブータンの政策運営における喫緊の課題であろう。
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- 2012/03/29(木) 07:00:44|
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畿内の墓は、九州・山陰・北近畿・吉備などとは異なって、弥生時代の古い段階から、一つずつの埋葬を墳丘や溝で区画することが多い。
ただし、この親族集団の墓がそのまま大きくなって古墳につながった形跡はたどれない。
古墳は上位の一部の墓が特定個人のために大規模化したのではなく、社会全体にわたって造墓原理が変化し、それが、日本列島周辺の広い範囲で短期間に起こっていることが、弥生墳墓から古墳への転換の歴史的本質だった。
初期の前方後円墳の分布をみると、奈良盆地を中心とする畿内と瀬戸内海沿いに大形のものがあって、九州北部や山陰には少ない。
つまり、鉄器が足りなかったところに、大きな前方後円墳がつくられているのだ。
そして、大形の前方後円墳には多量の鉄器が集められ、長の遺骸とともに埋められている。
箸墓は後円部を三段とし、前方部に独特のスロープの機能を加え、高くさし上げた主の遺骸のありかと、それを背にして周囲を睥睨する前方部端とを往来するスロープ通路とをショーアップする意図が設計思想の根本だったと考えられる。
巨大な墳丘によって天空高くまつりあげられたスロープ通路も、その格づけや偉大さを演出するたくさんの奉献品を並べる竪穴式石室も、その主人公を非現実の世界にすむ超自然的存在-「神」ないしはそれとの媒介者に仕立て上げる装置だったと考えていいだろう。
3世紀後半に入るころの箸墓から5世紀後半の土師ニサンザイまで一貫して長さ200mを超える畿内の大形の前方後円墳の形の本質は、箸墓で考え出されたスロープ通路を天空高く浮上させていくことだった。
まず畿内では、長さ200mを超える大形の前方後円墳が奈良盆地に築かれ、京都盆地、大阪湾岸などの要地にも50~60mから、ときに100mを超える前方後円墳があらわれる。
京都府木津川市椿井大塚山(180)、大阪府高槻市弁天山A1号(岡本山、120)、同交野市森1号(120)などが、奈良盆地の箸墓、西殿塚、桜井茶臼山などと同じ世代の例である。
大型古墳のオオヤマトへの異常な集中ぶりと周辺での空洞化ぶりは、畿内および近国の有力な長たちが列島政治のサミットメンバーとして奈良盆地東南部に集まってリーダーシップをふるい、死後もそこにまつられたようすを推定させる。
だが、つぎの4世紀後葉になると、オオヤマトに一極集中していた、後円部径100m超の巨大前方後円墳が多極に分散していく。
各地に新しくあらわれた大型前方後円墳は様式が統一されており、情報や技術、およびそれらをになった多数の人びとの相互交流があったようだ。
4世紀後葉から5世紀中ごろにかけて、顕著な分権化が進んだことは明らかだ。
6世紀に入るころからは、畿内を発信源とした別のスタイルの横穴式石室が、列島の広い範囲にひろがりはじめる。
朝鮮半島の百済に原型があるとされ、「畿内型」とよばれるこの石室は、最初から墳丘のペースと同じレベルで築かれ、後門部の横合いに出入り口をもつ。
「天空のスロープ」を高くさし上げていく墳丘そのものの巨大化の意図もうすれてしまい、これが西日本の多くの地域で大きな古墳が減っていったことの要因と考えられる。
横穴式石室の埋葬のしくみは、出入り口を使って何人もの遺骸をつぎつぎと埋葬できるという、それまでの竪穴式石室や棺の直葬にはなかった特性だ。
5世紀前半までは、墳丘をめぐる数百~数万本の円筒埴輪のほか、主の遺骸を埋めた後円部上に埴輪を置く人の視線を意識しない配置から、横穴式石室が各地に導入される6世紀になると、石室の出入り口の前や、外から見えやすいテラスに埴輪群は集められる。
「黄泉国」の概念が生まれ、横穴式石室の副葬品でも食器の副葬が一般化する。
死者と生者の空間的な関係も、5世紀までの巨大古墳と、6世紀以後の横穴式石室項とでは異なり、遺骸の空間は人が何度もそこにアクセスできる、古墳と人びととのあいだの空間的・心理的なインティマシー(親密性)が強まった、と分析できる。
個人の記念碑から一族の奥津城へと墳墓を変質させ、まもなく消滅へと追いやったのは、横穴式石室化の波だった。
大きく入念な墳墓は、長を神々の座にまつり上げる宗教的施設だったが、つぎの時代にはそのままの形で生き残らなかった。
だとすれば、宗教上の大きな変革が想定できるが、横穴式石室と仏教とのあいだに、何らかの深い関係があったとみるのは困難だ。
それならば、もはや王侯貴族や有力者を独自の伝統宗教のなかで神格化することがなくなっていた中国の先進的な葬法が、仏教とともに伝わってきたと考えればどうだろうか。
伝わってきた仏教が在地の伝統宗教を後退させることにより、竪穴式石室と前方後円墳などの固有の墳墓をおとろえさせ、横穴式石室に土饅頭という中国起源の普遍的なスタイルに各地の墓制を塗りかえたということである。
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- 2012/03/28(水) 07:00:58|
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 | 特別展連続講演会
秘匿された鎌足墓-阿武山古墳を考える-
森田克行 館長
3月25日(日)13:30~15:00
今城塚古代歴史館 2階 |

阿武山古墳は類例のない地下式墓だ。
土盛りもなく、厚葬の墓を隠して、どこに墓があるか分からない、秘匿された墓だ。
一方、茨木市に大織冠古廟という江戸時代から献上されている古い祠がある。

『摂津名所図会』 大織冠鎌足公荒墳
実際は将軍山古墳群の1号墳で横穴式の石室だから6世紀後半の古墳で、これを廟に仕立てて、石碑を建て、鳥居があって、階段がある。

その石碑「大職冠鎌足公古廟」に藤原道孝が明治初めに建てたとある。
摂関家の筆頭である京都の九条家が、茨木の墓に毎年鎌足の命日(10月15日)にお参りしていた。
『日本書紀』には天智8年(669)「十月辛酉 藤原右大臣薨」とあるだけ。
大化の改新など天智天皇と共にクーデターを起こした功労者の死について、記紀の記述はあまりに素っ気ない。
天平4年(780)、恵美押勝(藤原仲麻呂)が『藤原家伝』を書いており、そこに初めて「薨于淡海之第」と近江で亡くなったと書いている。
南家は鎌足の墓は山階にあると主張し、墓は自分の所領の山階にあるとする。
しかし、建久8年(1197)の『多武峯略記』で、不比等に大織冠の墓所が摂津国島下郡阿威山にあると答えさせている。
不比等の子、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)・麻呂(京家)のうち、次男の房前に三島の別業で鎌足の墓を守るよう口伝で伝えたのだろう。
ところが、房前の子藤原清河が遣唐使となり、客死してしまい、三島での北家の所領経営が断絶。
不比等の遺志は断たれ、所伝のみとなる。
そして、平安末期に九条兼実が安威郷に鎌足の墓を探して、将軍山1号墳を阿威山墓に見立てた。
高槻には藍(あい)の地名が失われ、茨木にのみ安威が残っていたところから藍野陵(継体天皇陵)は今城塚古墳ではなく太田茶臼山古墳であるとしたのと同じだ。
以来、この古墳を古廟として設えた。
鎌足は自分の意志で三島に墓を造った。
なぜなら、鎌足死後すぐに壬申の乱があった。
もし、近江や奈良に墓を造ったなら、壬申の乱で墓は暴かれただろう。
どちらが滅んでも大丈夫なように、大友皇子・大海人皇子の両方に自分の娘を嫁がせており、中立の立場を貫くことで藤原家の存続を図ったのだ。
テーマ:大阪 - ジャンル:地域情報
- 2012/03/27(火) 07:05:26|
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高槻市立今城塚古代歴史館の森田館長のお話を伺いに行くと、大勢の人だかりが…。
高槻市の今城塚古墳で出土した埴輪にちなんだ
消防キャラクター「はにたん」がお出迎え。

人だかりの主は高槻市出身の男子フィギュアスケート選手、織田信成さん。

一日館長の織田さんから、8万2千人目の来館者である少女に記念品が贈られました。
八・二・〇で、「はにわ」の語呂合わせですね。
テーマ:大阪 - ジャンル:地域情報
- 2012/03/26(月) 07:00:19|
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弓場八幡宮神社(ゆみばはちまんじんじゃ) 神戸市須磨区南町3-2-11
一説に 永延年間(987~989)第66代一條天皇の御代とも伝えられるが、創建の年月日は不詳。 誉田別尊を守護神として創祀される。 明治中期に権現社並びに天満宮の末社を境内に祀り、昭和29年本殿の改築を機にその御祭神 五十猛尊・菅原道真公を合祀する。 かって元境内に三十三間の射場を有し、陰暦2月1日に「御弓の当」(みゆみのとう)なる儀式を行ったと伝えられ、社名はこの古式に由来する。 創祀以来東須磨村一円の氏神として近郷の信仰を集め、開運厄除の神として広く崇敬されている。 |

拝殿
『武庫郡誌』には明治44年12月27日東須磨村字牛塚の無格社牛頭神社を合併し、その祭神素戔鳴尊を合祀とある。

本殿 祭神:誉田別尊・五十猛尊・菅原道真公

弓場稲荷大明神(倉稲魂命)
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- 2012/03/25(日) 07:10:54|
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浄福寺(じょうふくじ) 神戸市須磨区桜木町1-4-6
頼政薬師寺 寺号を浄福寺(俗に頼政薬師寺)と言う。浄福寺は、この地西須磨の旧家前田氏の創立と伝えられ、御本尊は、薬師如来。聖徳太子の御作で像高は、1尺ばかり。脇詩は十二神将。久寿の頃(1154~1155)源三位頼政が再興したことから、俗に頼政薬師と言われている。そして、また、本堂と十二神将は、尼崎藩青山氏の寄付と伝えられている。当時西須磨地区は尼崎藩であった。 明治以前浄福寺では、毎年1月8日薬師統人といって、この里の人々が集まる儀式があり、座敷に松竹梅の三宝をかざり、その上座には、薬師如来をまつり、全員がかみしもを着用し謡曲で興をそえられた。この儀式に参加することによって始めて、村人として、その資格が認められた。夜には、鬼追い式がおこなわれ、鬼踊りと称して仮面をかぶった鬼が里人を狂ったように追い回したという。 この鬼追い式は、非常に有名で、当時の須磨の一番大事な祭りであったと言われている。最近は、形を変えてこの伝統行事が受け継がれ、西須磨協議会会員が中心となって、同じ1月8日に、西須磨地域の繁栄と同地域に住む人々の家内安全を祈願されている。 浄福寺は、平成7年1月17日午前5時46分、当地域を襲った阪神・淡路大地震により倒壊し、平成11年11月に再建された。 |

本堂 本尊:薬師如来

子育て地蔵尊

『摂津名所図会』
頼政薬師(よりまさやくし) 前田の西、須磨寺の入口にあり。寺号を浄福寺といふ。本堂の傍に鐘堂あり。 近年再興す。この寺も前田氏の抱所なり。 本尊薬師仏 聖徳太子の御作。長一尺ばかり、脇士十二神将は尼崎先領主青山侯の寄附なり。 この地は、むかし、諸堂巍然たり。 『須磨記』に、上野の岡といふ所、何がしの寺あるよしにて、鐘さえかへりて耳頭うれひを催せりとは、この寺の事なりとぞ。その後、破壊に及びしを、久寿の頃、源三位頼政重興せり。ゆゑに名とす。 例年三月、夜鬼踊といふ事あり。追儺のごとくなる鬼の形をして、村民ここにをどり狂ふなり。 |
テーマ:兵庫県 - ジャンル:地域情報
- 2012/03/25(日) 07:05:59|
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奥の院 参道

奥の院 改修工事中(平成24年2月1日~8月31日)

心願大師・衆生救済波切不動明王
不動明王は奥の院に埋もれていたという。
テーマ:兵庫県 - ジャンル:地域情報
- 2012/03/25(日) 07:00:22|
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正覚院
大正14年に焼失し、昭和13年に現在地に再建された。
本尊:愛染明王

蓮生院
熊谷直実の法名「蓮生坊」に由来。
大正5年焼失し、昭和9年現在地に再建。
本尊:不動明王

桜寿院
本尊:阿弥陀如来
テーマ:兵庫県 - ジャンル:地域情報
- 2012/03/24(土) 07:15:16|
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