古代の一日は昼と夜、それに両者の境界の時間帯として朝と夕に区分できることが、古代の諸史料から知られる。
このうち、人間の視覚が遮られる夜は、古代の人々の心性においては霊・鬼・神など異類のものが活動する時間帯であった。
また、夜には視覚が十分機能しない分、それ以外の聴覚・嗅覚・触覚などの働きによって、人々は暗い夜の時間に想像力をかきたてることになった。
古代の人々は、神が示現する夜に祭りや歌垣(嬥歌)を行なったし、盗賊の活動も夜のことが非常に多い。
そうした夜に、秩序立った集団行動を行うことができたのが武士で、そこに武士が新たに台頭していく一つの契機があった。
また、夜には葬送、入京などが人目をしのんで行われたり、狩猟の場面でも待ちや灯(照射)といった夜の暗さを利用した人々の知恵もあった。
異類の活動は、暗闇が迫りつつある夕方から始まっていた。
その意味で夕方は昼の明るさと夜の暗さとが交錯する境界的な時間帯であった。
一方、朝は夜の間の異類の仕業の痕跡を朝の明るさのもとで人々が発見して驚く時間帯で、朝と夕は異なる位置づけがなされていた。
従って、朝・昼・夕・夜という四区分を、もし二区分すると、朝・昼と夕・夜とに分けられると思う。
また、古代の人々は朝・夕という境界的時間に夕占、「朝日よく」として、神意を確かめる技ももっていた。
変若水(おちみず)という若返りの水を飲む信仰も、背景に朝の明るさのもとで若返りたいという古代の人々の思いが想定されよう。
それに対して、明るい昼間では秩序が重視され、とくに古代律令国家の支配秩序は昼間に公開された。
遣隋使の派遣を契機として、7世紀以降に朝政が始まるが、王権祭祀の中にも昼間の儀が登場するようになった。
古代国家は7世紀後半、漏刻(水時計)を導入し、時刻を鼓・鐘によって報知することで天皇や貴族の政務、都で暮らす人々の生活を規制するようになった。
しかし、漏刻の設置は都(陰陽寮)と辺境諸国、それに伊勢神宮に限られたため、機械的な時刻制が影響を及ぼす範囲は自ずと限定され、地域社会では基本的には朝・昼・夕・夜の暮らしが活きていた。
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- 2012/02/29(水) 17:00:00|
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江戸近郊に住む農民たちが生業にしていたのは、主に野菜作りで、練馬大根や千住葱、谷中生姜、小松川の小松菜などが陸路・水路をたどって神田や駒込、千住、日本橋などの青物市場に集められ、江戸の町で消費された。
農民たちは野菜を売った金で食料や日常品を買うだけでなく、江戸庶民の屎尿を買い取って肥料とし、さらなる生産に努めるシステムを形成した。
現代人から見ても相当に市場経済的な農業である。
地方で農業を営む人々が普段から食べていた主食は米に麦や粟、稗、黍などの雑穀や、大豆・ダイコンなどの野菜を混ぜ込んだ糅めしが主流である。
一方、江戸の人たちが1年間に消費した米の量は1人あたり約1石(約150kg)。
これだけ量を食べれば、おのずと白米に合うようなおかずがほしくなる。
和食の基本的な構成である一汁三菜の形が整ったのも白米めしが定着して以降である。
一汁は味噌汁で、主菜に魚介類に、副菜の二品は根菜などの煮染めに豆腐や納豆、油揚げなどの豆食品が中心となり、それに漬物が加わる。
江戸の庶民の夕飯は朝に炊いた米飯をお茶漬けにし、香の物を添えるのが基本のメニューだった。
江戸は職人の町であったため、朝食をたくさん食べて力をつけ、夕飯を茶漬けで済ませるのは合理的な食習慣だった。
やがて食事に銭を惜しまなくなっていく江戸っ子たちのあいだで外食産業が花開き、文化文政年間(1804~30)に江戸の食文化は隆盛を極め、総菜売りや、町を歩けばそば屋や屋台の鮨屋がずらりと並ぶ、デリバリーとファストフードの町へと発展を遂げていった。
江戸中期に江戸の町中に出現した屋台は、待たされるのを嫌う江戸っ子の気質にぴたりとはまり、天明期(1781~89)には通りの両側にずらりと並ぶほどのブームになった。
屋台で売られる料理の種類は天ぷら、鮨、おでん、鰻の蒲焼き、焼き芋、ゆで卵などで、なかでも鮨は今日に至る和食文化の流れを決定づけたといっていいだろう。
1977年の「マクガバン・レポート」が下した「現代人が食べるべき」理想の食事は、白米食が定着する以前に日本人が食べていた食事そのものだった。
また、昭和8年(1933)刊行の『健康に輝く延命長寿』には、昭和初期に100歳以上だった超長寿者たちの「食生活の内容」と「好物」が書かれている。
全員が江戸時代生まれの彼ら彼女らのほとんどは農業を営んでいたこともあり、明治になって以降も生涯を通じて、食卓に並ぶ主食のほとんどは麦や粟などの雑穀だった。
忙しい毎日に疲れたら、江戸めしから心の余裕を吸収してはどうだろうか。
現代のビジネスパーソンに不眠症を患う人が増えていると聞くが、江戸っ子の生活リズムと食事に安眠の秘訣を学びたい。
江戸の朝は早く、朝食は江戸めし流で、海苔、佃煮、うるめイワシ、サバの味噌煮、鶏卵、鮪、塩鮭などをしっかり食べてから一日を過ごせば、夜にはぐっすり眠れるだろう。
まずは一汁三菜の習慣をつけることだ。
味噌汁には具を3種類以上入れること。特に旬の食材を意識してほしい。
主菜は動物性タンパク質。できれば新鮮な刺身が理想だが、煮魚や焼き魚でも構わない。
2つの副菜のうち、1つは大豆系を選ぶこと。
もう1つの副菜は野菜系。イモ、ゴボウ、ニンジンといった根菜だとなおすばらしい。
「菜」のなかには漬物が含まれていないが、これも忘れないようにしたい。
町中で食事をとるときも、江戸めしを選ぶ方法はとてもシンプルで、「江戸時代にあったか」を判断するだけでいい。
当時の食事は決して「粗末」「粗雑」な粗食ではなく、四季が生む「素材」の「素朴」な味わいを活かした、いわば「素食」だといえよう。
そしてこの素食文化こそ、現代まで続く伝統的な日本料理の精神的な土台に他ならない。
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- 2012/02/28(火) 07:00:45|
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デジタル放送はゴーストが出なく、スノーノイズも出ませんが、画面がモザイクをかけたように乱れる「ブロックノイズ」、画面の一部が静止画になる「バーストノイズ」があります。
アナログは乱れながらもだいたい映りますが、デジタルはある一線を超えるとまったく映らなくなってしまうのです。
伝送路の方式をアナログからデジタルに変えても、受信料収入も広告収入も増えず、地デジを流す放送局がアナログ放送を流す放送局より儲かることもありません。
にもかかわらず地デジ対応にカネや人を大きく食われ、とりわけ経済不況とインターネットの影響で広告収入が大きく落ち込んでいる民放では、ドラマ、報道、バラエティなどの制作事情が総じて以前より悪化しています。
地上デジタル放送で、テレビは確かに高画質、高音質、横長になったが、鮮明な画面に映るのは、以前より劣化した番組ばかりでは、なんのためにデジタル化をしたかわからないでしょう。
地上デジタル放送はフランスでも05年3月末から始まり、フランス政府は国民に最低でもアダプタを1万円で買ってほしいといいましたが、HDTVを買ってとはいっていません。
ドイツの地上デジタル放送も2003年に始めて2008年11月、いち早くデジタル化を終了しました。
伝送路の方式をアナログからデジタルに変更するだけですから、家庭のテレビ受像機はそのままに、CATV(ケーブルテレビ)のデジタル化と、低価格デジタルチューナーの普及で済みます。
こうして全世帯にCATV、低価格チューナー、HDTVのいずれかが普及すれば、地上アナログ放送を停止できますから、アナログからデジタルへの移行は5~6年もあれば余裕です。
日本だけが「地上デジタル放送への完全移行とは、全世帯が古いテレビを捨て、地デジ対応のハイビジョンテレビを買うことである」というデジタル放送政策を推進しています。
これは世界の例外中の例外ですから、諸外国と比べて、地デジ化にはるかに時間がかかるのは当たり前。
全国の道県庁所在地で地上デジタル放送が始まったのは、首都圏・名古屋圏・大阪圏から3年遅れの2006年12月。
その時点から4年8か月ですべてのテレビを取り替えろというのですから、ムチヤクチャな話です。
総務省も社団法人デジタル放送推進協会も放送局もメーカーも、この問題にはいっさい触れずにごまかしてきました。
1998年に地上デジタル放送を始めたアメリカは、当初の2006年終了予定を2009年2月まで延期し、さらに4か月延ばして、ようやく2009年6月に地デジ移行を完了し、なお300万世帯が取り残されました。
アメリカが11年かかったのですから、2003年に始めた日本が2014年までかかってもなんの不思議もありません。
テレビが壊れるペースに合わせてデジタル対応テレビに変えていく必要な期間が10年というのが、2000年代のはじめのテレビ関係者の〝第一感″でした。
ところが、長い地域で7年7か月、標準的な地域で4年7か月、短い地域で3~1年と、大幅に削られてしまいました。
普及がなかなか進まないのは、期限設定の誤りというべきでしょう。
2001年の11月15日の民間放送50周年記念全国大会の挨拶に立った天皇は、「今日、情報通信の世界は、技術の進歩とあいまって著しい発展を続けています。放送の世界もより多くの情報提供が可能になるデジタル化という大きな技術変革に取り組んでいると聞いております。今回のこの技術革新がその恩恵にあずかり得ぬ人びとをつくることなく、わが国のすべての人びとの上に幸せをもたらすものとなることを願っております」と述べられました。
地上デジタル放送をめぐる議論には、残念ながら「民の幸せ」という視点がまったく欠如しています。
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- 2012/02/27(月) 07:00:53|
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地下鉄東西線木場駅からすぐ南に行ったところに洲崎神社という小さな神社がある。
そこに「津波警告の碑」なる石柱が建てられている。
寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467余坪(約1万8000m2)を買い上げて空地としこれより海側に人が住むことを禁じた。
この事例は江戸に高潮・津波が来ないという保証はないことを示している。
そんなとき、東京都立図書館で「
東京市高低図」という古地図を発見した。
大正12年9月1日に発生した関東大震災の後、復興事業のために内務省の外局として復興局が設置され、この地図は作成された。
「東京市高低図」で次のような地名があるところは要注意といっていい。
「谷」=大地からの水で刻まれた谷で、ここには当然のことながら集中豪雨時には水が集まることになる。
「窪」「久保」=いずれも窪地を意味して、当然水が溜まりやすい。
「池」=これも当然のことだが低地である。
「落合」=2つの川が合流するところにつけられる地名で、その周辺ではいちばん低くなっている。
「池尻」=池から水が流れ出るいちばん低い地点につけられる地名である。
その他、下町では「江」「川」などの地名がつくところは要注意。
また液状化では「砂」「浜」という地名はかなり危険だと思っていい。
東京湾を津波が襲った場合、特に危険にさらされるのは、江東区・墨田区・江戸川区・葛飾区である。
この一帯はいわゆる海抜ゼロメートル地帯を含む低地で、住宅地が密集している。
この地帯は沖積層という地質で構成されており、地盤としては緩く、関東大震災でも家屋の全壊率が高かった。
このゼロメートル地帯はすでに水深0~4mの巨大な湖であり、周りは川や海で取り囲まれ、その堤防が水の流入を防いでいるおかげで辛うじて通常の生活が営まれているということである。
もともとこの地帯は明治の頃までは水田で、住宅地として利用されていたわけではなかった。
海抜ゼロメートル地帯の中でも特徴的といわれる江東区の「砂町」は江戸時代に開発された「砂村新田」に由来するとされ、明治22年(1889)に砂村新田を含む周辺の新田が合併されて「砂村」となり、大正10年(1921)に「砂町」が成立した。
標高はマイナス1mで、この地に津波が押し寄せたらと考えると、かなり恐怖を覚えることは確かだ。
現在の東京都のウオーターフロントは、高さ約4mという堤防で高波や高潮を防ぐことになっている。
これを超えたら海抜ゼロメートル地帯は水没する。
まして地震で堤防が決壊することになれば、それだけでも下町は冠水することになる。
とにかく、今の東京都には洪水用のハザードマップはあるが、津波用のものは島嶼部を除いて作成されていない。
早急に対策を講じてほしい。
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- 2012/02/26(日) 07:00:07|
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エドワード・シルヴエスター・モースは、1838年6月18日、アメリカ、メイン州のポートランドという港町で生まれた。
少年モースはカタツムリや淡水に棲んでいる貝を集め始め、18歳でカタツムリの新種を見つけて発表している。
21歳のとき、彼の貝のコレクションがきっかけとなって、ボストンのハーバード大学の動物学教授ルイ・アガシーの学生助手となり、アガシーの下で貝やコケムシと呼ばれる海産動物の研究を進めた。
1871年、33歳のときにボードイン大学の教授に就任し、翌年日本にむかって太平洋を渡る船に乗り込む。
モースが日本をめざしたのは、シャミセンガイやチョウチンガイといった、椀足貝を調査するためだった。
モースの時代、日本近海は椀足貝の多産地として世界的に有名であった。
モースはアメリカで貝塚調査に携わった経験があり、その経験があったからこそ、大森貝塚を発見できた。
ハイガイについてモースは「貝塚でもっとも豊富な貝である」と書いている。
しかし、ハイガイは明治の大森周辺では見つけることができない貝で、そのためモースは江ノ島や北海道でも貝を採集したが見つけることはできなかった。
ハイガイは二枚貝の中の翼形亜綱、フネガイ科に属している。
現在、貝塚時代に東京湾で普通に見られたハイガイが絶滅した理由は、縄文海進最高期以降のゆるやかな海水面低下とともに、内湾が浅くなり、ハイガイの生息に適さなくなったためという考えが提唱されている。
モースの見たこと、考えたことを追ってみると、身近に見られる貝たちが時代の流れの中で、2度の大きな変化を迎えているのに気がつく。
ひとつは、縄文時代から現在にかけての地球規模の気候変動とそれに伴う、海水温や海水面の変動。
もうひとつは、明治以降、現代にかけての環境変化による在来種の絶滅と移入種の増加。
縄文海進期には、「温暖化」と「おぼれ谷の形成による干潟の出現」というふたつの作用が見られ、縄文海進期には関東地方には分布していないような「温暖種」が分布していたことがわかっている。
ひとつは9500年前に出現するが、5000年前ごろを境に急に姿を消すか、分布が限られてしまう種類で、ハイガイ・シオヤガイ・コゲツノブエは現在、南日本以南に見られる種類で、亜熱帯種ということができる。
もうひとつは6500年前ごろから4000年前ごろまでの比較的短期間のみ見られた種類で、カモノアシガキ・チリメンユキガイ・タイワンシラトリは現在、熱帯域に分布する種類で、熱帯種ということができる。
ハイガイは関東地方以北でも縄文海進期には生息していた。
ハイガイは、昭和10年ごろまでは、西日本各地の内湾(伊勢湾、三河湾など)で見られたが、干拓などの影響で急速に分布を狭め、ついには有明海と瀬戸内海の一部のみでしか、見ることができなくなり、さらに有明海でも諌早湾のハイガイは全滅してしまった。
諌早湾が干拓されたことで、日本からハイガイが絶滅した可能性が高いとある。
大森貝塚から出土する貝殻のリストに、ハイガイとともにハマグリの名がある。
明治時代の大森海岸では、「温暖種」のハイガイは絶滅して姿を見ることはなかったが、ハマグリは普通に見ることができたということが、モースの『大森貝塚』の記述にある。
ハマグリが東京湾から姿を消したのが、1970年代。
ハマグリは水産庁の発行しているレッドデータでは〝減少種″、WWF発行のレッドリストでは〝危急種″という状況である。
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- 2012/02/25(土) 07:00:40|
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究極の価格破壊店「100均ショップ」もすっかり一般に浸透して、もはやその価格に驚きはありませんが、やはりその儲けの仕組みは謎に包まれていますよね。
100均ショップの最大手チェーン「Dイソー」は1997年に500億円弱だった売り上げが、現在では3000億円を軽く超えています。
90年代初頭は100均ショップ=プラスチック製の日用雑貨のイメージでしたが、今ではお泊まりの緊急の場合に必要な衣料品と、消耗品が中心になっているようです。
かつては100円相応の商品や〝バッタ物″と呼ばれる低品質アイテムが多かった100均ショップですが、現在ではメーカーや工場直での生産・調達が主流になっています。
「Dイソー」ではオリジナル仕様のPB(プライベートブランド)商品が全体の8割近く。
安全性を重視してNB(ナショナルブランド)にしぼっている菓子や加工食品、季節性の強いスポット商品を除けば、99%がPBということ。
そして「Dイソー」は、外注先の工場を全世界から厳選しています。
無駄を排除して単純化した商品仕様ならば、世界には100円という売価に見合う原価で調達できる工場が多数あるのです。
「Dイソー」ではレジ係は「何が売れたか」の確認をせず、商品点数のみを数えてレジを打っています。
つまり商品単品での在庫管理をまったく行っていないということ。
実はこれ、小売店の常識からは考えられないことです。
「Dイソー」にて100円で販売されている商品のほとんどは、基本的に50円で仕入れています。
逆に言えば50円で仕入れられるように、生産コストを抑えられる工場を厳選しているということ。
まず、仕入れ値を強引に一本化することで、よけいな手間(コスト)を削減しているのです。
そのうえで商品ごとの在庫管理を行わず、フロア責任者や店長が店頭と在庫を〝目で見て判断″し、商品納入の指導、決定をしています。
さらに売れ行きの悪い商品は店舗内で陳列場所を移動して消化を図り、さらには同エリア内で店舗移動させて、強引に消化しているのです。
言い方を換えれば「数値に頼らず見た目で仕入れて、仕入れたものは意地でも売る」という戦略。
「Dイソー」の社長はあるインタビューで「仕入れは格闘技である」という名言を残しています。
現場の人間が経験を積むことで、ロスを極限まで減らす。
システムへの投資がないので、商品管理のコストは格段に低くなる。
これが「Dイソー」をマンモス企業に育て上げた「戦略的ドンブリ勘定」なのです。
また、現在では圧倒的な知名度があるので、広告にお金をかける必要もありません。
仕入れ値を50円に抑え、さらに販売管理費(在庫管理費、人件費や家賃、広告費など)を抑えることで利益を捻出する。
ちなみに「Dイソー」の平均客単価は400~500円程度といわれています。
衝動買いしやすい環境になっているので、100均ショップでの浪費を防ぐコツは、買い物カゴを使わないこと。
手に持てないほどの商品を買わなきやいけないことなどないはずで、「今必要なモノ」しか買わないほうがいいでしょう。
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- 2012/02/24(金) 07:00:37|
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大伴氏は軍事氏族として名高く、律令制度下にあって右大臣・大納言・中納言や参議にまで昇りつめた。
家持の父大伴旅人の歌には、齢も60を過ぎ、太宰府に赴任後まもなく妻を失ったことも重なりあって、望郷と懐古の念を奈良の都ばかりでなく、「吉野」「飛鳥」に向けている。
吉野は大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱を起こした地で、これに従った大伴氏にとっても特別な場所で、飛鳥も都が平城京に遷されるまで旅人が46年をここで過した。
旅人が都のほかに吉野や飛鳥を歌う背景に、こうした生い立ちと一族の輝かしい栄光とを重ね合わせることができる。
さらに、旅人が赴任した地が「九州」であったことも、こうした大伴氏の輝かしい伝統を懐古させやすくした。
新羅親征、百済救援、任那復興と、大伴氏人が大軍を率いてしばしば九州にあったと『日本書紀』にあり、旅人の父安麻呂も大事帥として九州に赴任し、旅人も養老4年(720)には征隼人持節大将軍に任ぜられていた。
家持がはじめて自族の伝統を歌に表したのは天平16年(744)で、「安積皇子挽歌」として作られた第二長歌がよく知られている。
それは旅人の伝統懐古が単なる郷愁であったのに、一層厳しい現実にさらされた家持の憧憬の世界であった。
このように理解される家持の氏族意識が、もっとも強く表されるのは天平感宝元年(749)の「陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌一首 井せて短歌」で、陸奥国から金の出たことを喜んだ聖武天皇が、詔で大伴・佐伯氏の伝統を顕彰したことに歓喜して、「天皇の御代栄えむ」ことを寿いだ天武朝を追慕したものだ。
政情への不安と越中国での孤独、元正太上天皇の崩御に鬱屈した日々を過ごす中、聖武天皇の出金を喜ぶ詔詞に出会ったのである。
翌天平勝宝2年(750)に自氏の輝かしい伝統とを重ね合わせたのが「勇士の名を振るはむことを慕う歌一首 井せて短歌」であった。
奈良時代において氏族の伝統とは、現実との葛藤によき日のできごとを追懐するものであったが、家持の場合、満たされない現実に自身の心情を振るい起こすべきものとして氏族の伝統を誰よりも必要とした。
翌3年(751)、家持の願いが適い帰京したものの、現実は予想以上に厳しいもので、歌日誌も空白が続いたが、5年(753)春に「春愁三首」或いは「絶唱三首」と呼ばれる歌を作っている。
天平勝宝6年(754)に兵部少輔に任ぜられたが、この官職は家持の氏族意識を刺激するものであった。
翌7年(755)2月、難波で防人検校が行われた際に防人たちから歌を集め、自身も防人をモチーフとした歌を作り、東国を舞台とした自氏の輝かしい伝統を防人に重ね合わせていた。
家持の頼りとしていた橘諸兄が天平勝宝8歳(756)2月2日に致任し、聖武太上天皇も5月2日にはこの世の人ではなくなり、同月8日には古慈斐の事件が起き、それを契機に「族を喩す歌」を作った。
ここに家持は大伴氏の伝統を今までになく丁寧に力強く表したが、大伴氏の伝統が神代から天皇に忠誠を尽くしてきた自負から、古慈斐の事件は容認できることではなく、事件と「族を喩す歌」とを両立させるために、左注をあえて「淡海真人三船の讒言に縁りて、出雲守大伴古慈斐宿称、任を解かる。」と記した。
和歌の世界にひたすら自身の理想を描いた家持は、さらに亡き聖武天皇を追慕して「病に臥して無常を悲しび、道を修めむと欲ひて作る歌二首」を作り、「寿を願ひて作る歌一首」によって「なほし願ひつ 千年の命を」の行く末を限って、独り文学の世界へと収斂して行くのであった。
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- 2012/02/22(水) 07:00:56|
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万葉集4500余首の歌中における地名は、その歌の中及び題詞・左註等のものすべてを含めて、約2860箇の多きを数へる。
舒明天皇以後、大化改新を経て、天智天皇の近江大津宮が廃墟に帰する壬申の乱(672年)に至るまでは政局は苦難に充ち、歌数も少なく、従って地名の中心集団も見られなくて、中大兄・大海大両皇子・鶴田王等の皇族作者を中心とする、大和各地・宇治・伊予・讃岐・南紀・近江等の地名の散在を見るにすぎない。
浄御原宮時代の前半期、天武天皇崩御前後までの間は、天皇・高市皇子・額田王・大津皇子・大伯皇女等皇族作者を中心に、地名は飛鳥地方・二上山・吉野・伊勢等の各地に散在の形で、その表現の在り方も前代と似通っているが、浄御原宮後半期の持統天皇の8年間になると、諸皇族作者の外に人麻呂・黒人等の専門歌人も現はれ、相つぐ行幸は、現住地飛鳥の地名の拡充以外に吉野・紀伊・伊勢志摩方面に発展を見、従ってその間の交通路上の地も現はれ、更に、「近江荒都」の歌(巻1-29)「藤原宮役民歌」(巻1-50)によって、近江滋賀地方や、近江から山城を経て大和への木材運搬路上の地名も現はれるに至った。
この期間以後、地名は歌人によってまさに歌はれる対象となったものと言えよう。
持統天皇の8年12月(694年)に藤原京遷都が行はれてから、文武天皇の10年間を経、元明天皇の和銅3年に至る藤原宮時代は、万葉地図の上でも地名の画期的発展伸張期である。
ここに初めて藤原宮を中心に大和一帯の地名大集団が現出し、地方各地も、いずれも藤原宮の影響下に大いなる地名の拡充を遂げた。
藤原官から寧楽宮の奈良朝初頭の25年間は、前代の基礎の上に立った貴族文化の最隆盛期で、歌の上では特に大伴旅人・山上憶良・山部赤人・笠金村・高橋蟲麻呂・大伴坂上郎女等専門歌人が輩出して、それぞれに秀れた個性が一時に繚乱の美を誇った時である。
特に神亀の頃からは筑紫赴任の旅人・憶良等によって、新に特異なる筑紫文壇が形成され、九州における地名拡充の新領域を持つに至った。
在任地太宰府附近の山野、博多湾沿岸の諸地、唐津松浦地方等の新な集団が現はれ、当代新人の統率に、大陸文化に近い環境は宴遊遊覧の機を多くさせて、土地を独自な風雅の対象地とさせている。
寧楽宮の後半(734年以後)、天平宝字3年(759年)に至る時代は、政界は混濁に向い、大伴家持の登場で、家持周縁の色に塗りつぶされてゆく。
度々の慌しい遷都に平城・恭仁両京をめぐって地名登場が行なわれている。
家持が天平18年に越中守赴任となってからは、歌壇は完全に北陸に移動された感で、能登・越中を中心に地名の大集団が結成され、北陸筋への交通路上の地も加へられてくる。
家持帰任後の万葉末年の大和には見るべき地名もなく、天平勝宝7年2月、家持兵部少輔の時の防人召集時の歌には、彼等の郷土たる東国各地の山河村里や、さまざまの思ひをのこして出船の難波近傍の地が現われて、生活的体験的に密着した地名表現が行われ、実地地名の活動に溌刺たる衷情の展開がなされ、衰弱した地名の活動に、掉尾の新鮮ないぶきを吹きこんで、万葉の幕を終らしめている。
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- 2012/02/21(火) 07:00:30|
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円仁は、日本では、彼の死後贈られた慈覚大師という誼によって、むしろよく知られているその時代を代表する第一級の宗教的人物であった。
しかしながら、現在では彼の名はわずかに歴史学者や宗門の人々のみが記憶しているに過ぎない。
円仁は西暦838年海を越えて中国に渡り、ついに彼が日本に帰る847年までの9年間半、広大な大唐帝国における詳細な旅日記『入唐求法巡礼行記』を残しているが、専門の学者以外にはほとんど知られていない。
旅行家としてのマルコ・ポーロの名声は、世界中にとどろいているが、慈覚大師円仁の名前は、彼の故国日本でさえも、わずかに学者の間に知られているに過ぎない。
しかしながら、旅行記としてはマルコ・ポーロのそれよりももっと資料的価値が高いといわれている。
円仁とマルコ・ポーロの見た2つの中国は、その間に4世紀の隔たりがあるから、当然違ったものであった。
マルコ・ポーロの中国は地上最大の人口と富とを有し、最も進歩した国であったが、蒙古から来た騎馬民族のために、史上初めてその全体を占領され、巨大なしかしルーズな大元帝国の一部分となったのである。
しかるに、円仁の見た中国はあまり劇的ではなかった。
6世紀の後半、中国人は早くも古代の政治的統一を復元することに成功した。
しかし、円仁が中国に留まっていた間に、唐の王朝は政治的には傾きつつあり、トルコ人の血を受けた唐の将軍で、宮中のお気に入りの安禄山が755年に起こした乱は、まさしく10年間の内乱の始まりであり、やがて王朝を亡ぼすに至る〝夷秋″の侵入を招く原因ともなった。
円仁は王朝の崩壊の歴史的諸段階の一つにおける中国をつぶさに観察し、当時の民衆の生活と政治の実態を詳しく描写している。
中国の東部沿岸に行なわれた、数多くの通商や積み荷の記事や円仁自身による中国沿岸航海の詳しい記述は、当時の中国の沿岸と外国貿易との関係について、最も信頼すべき描写である。
同様に、中国仏教信者や彼らの儀式、また聖蹟に関する彼の親しい記述は、生きた宗教としての仏教に対する中国史の最高水準をゆくユニークな洞察なのである。
彼の中国滞在の終わりに近い年に起こった仏教弾圧に関する彼自らの手による描写は、一国民の知的・文化的生活の曲り角に際しての我々がもつ唯一の詳しい記録である。
円仁が見て記述した中国は、伝統的な中国史の学者によって王朝衰亡の時代とさげすまれているけれども、実は成長と発展のすばらしい時期における中国であったのである。
10世紀の後半、宋朝が設立されてのち、中国人によって書き残された記録は、いくらか視野が広まり、より高度の真実を伝えるものとなったが、ただ一人円仁のみが宋代以前の伸びゆく中国の動的な生きた日常生活を見返す窓を広く開いたのである。
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- 2012/02/20(月) 07:00:13|
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鎌倉 健 欲望都市から共感・共生のまちへ -21世紀における大阪の都市再生にむけて-
大阪生まれの作家藤本義一は『大阪人と日本人』のなかで、「ガラが悪い。下品。騒がしい。怖い町。せっかち。厚顔無知‥‥‥」「際限もなく、誉め言葉にならない表現を並べ立てられるのが、大阪及び大阪人だ」とのべている。
民俗学の梅棹忠夫は「大阪万博」に先立つ1960年代後半に、大阪商人は「かつて絢爛たる町人文化を育んだにもかかわらず、最近は目先の金儲けに終始している」「それが大阪人の常識になっているのをみたり感じたりするにつけ、現在の『大阪は下司の町』と断定するしかありません」と喝破した。
まず検証すべきは、大阪のイメージを落とす「がめつい」「ケチ」「守銭奴」などと揶揄される拝金主義的な暮らしぶりの背後にある、「なぜ、大阪府民は貧しいのか」という疑問である。
大阪府民1人あたりの所得は308万円(2006年)と、大都市圏に位置しながら全国平均とほぼ同額で、大阪府の生活保護率は1982年以降全国保護率を上回っている。
しかも2007年の保護率は全国ワースト1で、なかでも大阪市の生活保護件数は2008年末から急増し、財政運営を困難にする一大要因となっている。
府民の相当部分に生活困難な状態が広がっていることは紛れもない事実である。
また、大阪は「ガラが悪い」「騒がしい」「下品」などという評判に加え、「怖い町」「危ない町」という問題で、事件・事故の発生件数は全国ワースト1で、なかでも殺人や強盗など凶悪な犯罪が多く、府民の日常生活が大いに脅かされている実態がうかがえる。
犯罪をめぐるいま1つの特徴は少年犯罪の多さと低年齢化である。
要するに現在の大阪府はとくに大阪市内を中心に青少年の健全な成長と発達を促すうえで、きわめて劣悪な社会環境にあることは疑う余地はない。
大阪府の大学進学率は53.0%(2009年)と全国的にも高位にあるが、就職先としては相当数が府外に求める傾向を反映している。
またこれを通勤圏から東京圏と大阪圏で比較すると、1980年調査時では東京圏は約137万人に対して大阪圏は約77万人であったのが、2005年では東京圏は約262万人と倍増したのに対し、大阪圏は約126万人にとどまっている。
このように大阪府の住環境をめぐる劣化が進んでいるにもかかわらず、戦後一貫して大阪府による政策の基本は大規模プロジェクトに終始した。
60年代前半に着手された大阪千里・泉北地区におけるニュータウン開発、70年の「大阪万博」と90年の「花の万博」の開催、80年代半ばから進められた大阪湾のベイ・エリア開発、94年に開港した関西新国際空港の建設といった次第である。
こうした施策展開の画期となったのが、堺・泉北臨海部への素材型重化学コンビナートの誘致で、税収や雇用の寄与率がごくわずかな反面、大量の汚染物質排出に加えて電力使用量や工業用水使用量など地域資源を大量に浪費するという皮肉な結果となった。
度重なる開発事業の後年度負担に加え、大企業の転出や不況の長期化もあいまって大阪府・大阪市はともに行政施策の財政的基盤である自治体財政が危機的状況となる。
そのため、もはや「ない袖は振れぬ」状態に陥った。
事業所統計でも、1996年には53万3,000を数えたものが2006年には42万8,000事業所に激減したように、この10年間でほぼ毎年1万を超える事業所が消滅し、関西財界を構成する金融資本や大企業の相当数が大阪府外へ転出するという事態が進行した。
これに対し、21世紀における都市再生は「ないものねだりをしない」を基本に地域資源の再発掘・再評価を含め地域の「宝」を的確に把握し、自治体と市民および住民組織、それに地元企業が三位一体的に連携し、その合理的な活用をとおして地域内経済循環を高めることである。
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- 2012/02/19(日) 07:00:47|
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