





| 人にして疾病なるや、学ばんと欲すれば能はざるなり。人に尫羸(おうるい)なるや、勉めんと欲すれども、亦能はざるなり。学ばず勉めざれば、何を以てその才を殖やし、その家を冨まさんや。夫れ、人材乏しくして民戸貧しきは、乃ち国の病なり。是の故に、施政の務めはいまだ民の疾病を除きて、その健康を保つより急なるは有らざるなり。我が府の聖旨を奉じ、つとに種痘術を行ひ、駆疫法を布き、遠く名医を海外より徴し、以て衛生医療を改良し、まさに大いに救済するところ有らんとす。 (療病院建設の経緯・・中略) 今より後、民の疾病を除きてその健康を保つは、難きことにあらざるなり。こひねがわくば、後の政をこの土に為す者、能くその始を思ってその終わりを善くし、敢えてこれを廃墜有ること莫く、斯民をして永く明治の皇沢にうるおはしめよ。因りてその顛末を記し、石に刻して以て後人に告げしめんとす。 明治13年12月 京都府知事 槇村正直 (読み下し文抜粋) |
京都府立医科大学と附属病院の前身である医学校と療病院は、1880年(明治13年)7月18日、現在の広小路の地に約6年の歳月を費やし、泡田口青蓮院内に設置されていた仮病院から新築移転した。日光宮里坊、二條、正親町の三旧邸の跡地に、ライプチッヒ大学病院をモデルにした療病院8,451坪(27.937.1m2)時としては最高の施設が誕生した。工事には府民が無償奉仕し、落成式には槇村正直京都府知事、萩原三圭医学校校長、ドイツ人教師ハインリッヒ・ボド・ショイベら多数が出席したが、「療病院の竣工を歓喜する満都の人気をわかし、種々の余興を催して蝶舞雀躍、その盛況は開都以来未曾有のこと」といわれた。後日、開院を記念して建てられたのが療病院碑であり、瀬田真黒石でできている。碑は設立当時、正門を入ってすぐ左側に建っていたが、旧臨床講堂南側、記念講堂跡地の中庭を経て、2001年(平成13年)2月に現在の場所に移された。 明治の初期、東京遷都によって「平安京の都」から一地方都市となった京都の衰退をくいとめ、新時代に生きる都市として再生させるため、勧業政策と教育政策が槇村正直や京都府顧問山本覚馬(後の初代商工会議所会頭)らによって強力に推進された。その政策の1つとして、青年蘭方医明石博高が中心になって1872年(明治5年)11月、青蓮院にヨンケル・フォン・ランゲックを招いて、ドイツ医学を主体とした療病院と医学校が設立された(同年9月、木屋町二条に仮療病院開設)。 設立は京都府の費用のほかに、京都の名だたる寺院や祇園の芸妓など花柳界、さらに一般府民、市民の浄財、拠出金や寄付金によった。 療病院という名称は、設立基金の発起人である3人の寺院住職、東山天華(永観堂禅林寺)、与謝野礼巌(岡崎願成寺、与謝野鉄幹の父)佐々間雲巌(慈照寺)らによって、593年(推古元年)に聖徳太子の建立した四天王寺の4箇院(施薬院、療病院、悲田院、敬田院)の1つにちなんで命名された。療病院が寺院の中に配置されていたことは、単に人々の病を治すという機能だけでなく、心の痛みや死への不安を癒す慈悲の精神に裏打ちされていたことを示す。 本碑文には、京都府立医科大学が千年の都に培われた歴史の礎の上に誕生したことを示す表現が随所に見られ、本学草創の理念が力強く語られている。 |

| この建物の由来は、神戸の開港と共にキリスト教の各教派に属する牧師及びその信者達が1870年(明治3年)旧居留地内の境界に集まり、ユニオンチャ-チと称し活動したことに始まります。 米国人建築家W.M.ヴォーリズ氏の設計(竹中工務店施工)により、ゴシックスタイルの会堂が1929年(昭和4年)6月この生田町の地に神戸ユニオン教会として誕生しました。 その後居留地の歴史と共に歩むなか、1995年(平成7年)1月の阪神淡路大震災と過去幾多の災害にも遭いましたが、顕著な被害を受けることもなく教会建物としての使命を果たして来ました。 1997年(平成9年)フロインドリーブ御夫妻の保存計画により、ジャーマン ホームベーカリー固有の手作りパンの総合店舗として施設の充実と改修工事を行い、1999年(平成11年)11月ここにこの建物の新しい歴史が刻まれました。また1995年9月文化財保存法に規定する文化財登録の答申を受け、国際観光都市神戸に相応しい名所の1つとして新たに加わりました。 1999年11月 改修設計 ㈱コラム林設計事務所 施工 ㈱竹中工務店 神戸支店 |










中央公会堂の寄贈者 岩本 栄之助大阪市中央公会堂は、岩本栄之助の寄付により、大正7年(1918)、竣工した。 岩本栄之助(1877-1916)は、明治時代後半から大正時代にかけて、大阪の株式界で活躍した人物である。 栄之助は、明治39年(1906)、父・栄蔵の営む株式仲買業を継ぎ、明治40年(1907)の株式相場の高騰などで大きな利益をあげた。明治42年(1909)、渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加し、アメリカの進んだ産業・文化を視察する。渡米中、父の訃報に接した栄之助は、欧米の富豪が公共事業や慈善事業に熱心であることに共感して、帰国後、株式相場で得た利益の寄付に動き始める。 100万円の寄付金の用途としては、はじめ商業高校の設立や学生の奨学金にあてるなどの案もあったが、最終的には公会堂の建設が選ばれた。建設は(財)公会堂建設事務所により行われ、設計競技(コンペ)を行った後、大正2年(1913)より工事が開始された。しかし、大正5年(1916)、株式相場で苦境に陥った栄之助は、公会堂の完成を待たずに、自らの手でその生涯を閉じた。 栄之助の没後も工事は続けられ、大正7年(1918)11月17日、落成奉告祭が行われた。栄之助の遺児・妻子から池上四郎大阪市長に公会堂の鍵が手渡され、公会堂は大阪市に寄贈された。 |

| 本館は、本願寺大教校として使用された学舎で、明治10年(1877)1月、本願寺21世明如上人の時に起工し、2年後の明治12年(1879)1月に竣工、同年5月に落成式を行った。 構造は、木骨石貼寄棟造、桟瓦葺、2階建てで、関西における洋風建築の先駆をなす斬新な建物として重要な意味を持ち、国の重要文化財に指定されている。内部1階には十時型廊下で仕切られた左右同形の室が6室、2階には東側に本尊阿弥陀如来像を安置する講堂、西側に階下と同形に2室ある。 柱、アーチ。手摺など各部に洋風の意匠を採り入れているが、中でも鉄製門扉、窓、手摺等は、ロンドンから取り寄せたものである。 此の本館の左右には、同年建設の学寮(木造切妻造、桟瓦葺、2階建て)が対称形に並び、また建物の周囲には、石造の表門を中心に石垣が建てられているなど、明治期の大学の優美な姿を今に伝えるものである。 京都市 |






| 「風見鶏の館」として知られるこの館は、明治42年頃、ドイツ人貿易商ゴッドフリート・トーマス氏の自邸として建てられました。 北野・山本地区に残る異人館で、レンガ張りの建物としては唯一のもので、色鮮やかなレンガの色調、石積みの玄関ポーチなど重厚な雰囲気を持っています。 設計はドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデです。 室内のデザインは、ドイツの伝統洋式をとり入れながら19世紀末から20世紀初頭にかけての新しい芸術運動(アールヌ-ヴォー)の動きを感じさせるものがあります。 昭和58年12月から昭和60年3月までかけて解体修理を行い、当時の写真などを参考にして、できるだけ元の姿に戻しました。 平成4年3月 |


Author:bittercup
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