 | 追手門大学 春の公開講座第6回 「郷土史」の中に「郷土」を閉じ込めずに 河内厚郎(追手門学院大学客員教授)
2012年4月23日(月) 14:00~15:30 茨木市福祉文化会館5階 文化ホール |
茨木の街のイメージとして、街道・宿場町・茨木童子とありますが、自分の生まれ育った故郷の歴史を「都へ通じる街道の宿場町として栄えました」では、その子供はまるで通り道のように見えてしまう故郷を早く出たがる青年に育つかもしれません。
よかれと思って使っている言葉によって、逆に地域の可能性を縛っているのが「郷土史」になっています。
大阪は江戸時代に「天下の台所」と呼ばれたとありますが、あの言葉が出来たのは実は大正時代のことで、大正時代に景気がよく、「天下の台所」というキャッチフレーズに乗ってしまい、その時から歴史都市・文化都市と言わなくなってしまいました。
産業構造は変化するので、「商都」「工都」などの呼称も今では日本の商業の中心は東京で、工業の中心は愛知県です。
このようにその時に流行った産業を中心に据えてしまうと、その中心で無くなると通用しなくなり、今の大阪は混乱していますよね。
昔こういうモノがあったというはっきりとした証拠があって、今あったなら、間が何百年抜けていても誤魔化せます。
これを「キセルの手法」と呼んでいますが、京都の名所には案外そんなケースが多い。
意外と知られていませんが、幕末、薩長は火を付けたので、江戸は上野の戦いで焼け、大都市では大阪が焼けていません。
ですから、戦前には大阪は「古都」と呼ばれ、小泉八雲は『大阪』にはっきりと「古都」と書いています。
京都が一番焼けて、蛤御門の変や地震で御所から南は全焼しましたから、一からのやり直しで、一番初めに市電が走り、鴨川から東側を再開発したりと、思い切った都市計画ができました。
遷都1100年の勧業博覧会の最大のパビリオンが平安神宮で、「都踊り」も「時代祭」も全部その時に始まったもので、明治以降の「歴史のテーマパーク」なのです。
実際に街並みが整ってきたのは大正時代で、この前の戦争で焼けなかったから、戦後は最大の古い街となった訳です。
本当は近代以降にできた名所や行事がけっこう多いにもかかわらず、そこに過去の故事来歴をくっつけて千年の古都を巧妙に演出しているのです。
ノーベル文学賞候補を見ると摂津国に関わりのある者が多く、豊中を舞台にした『愛の渇き』の三島由紀夫、毎日新聞大阪学芸部にいた井上靖、高山右近や荒木村重を描いた遠藤周作、現在では芦屋で育った村上春樹がいます。
摂津国の地域には三好達治記念館(高槻市)・川端康成記念館(茨木市)・池田文庫(池田市)・柿衛文庫(伊丹市)・谷崎潤一郎記念館(芦屋市)と、都市圏では珍しく文学館が非常に多く、文学館サミットというのもやってみたい企画です。
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- 2012/04/25(水) 08:33:20|
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| 追手門大学 春の公開講座第3回 茨木の発展と二筋の鉄路 国鉄東海道本線と新京阪鉄道 宇田 正(追手門学院大学名誉教授)
2012年4月12日(木) 14:00~15:30 茨木市福祉文化会館5階 文化ホール |
茨木の地は、古来京都と西日本とを結ぶ国内交通上の要衝で、陸路では西国街道、水路では淀川の舟運が通じていた。
しかし明治期に入ると京都の力が弱まり、大阪を通らぬ西国街道は重要性が減じ、また淀川の水路も河況が荒れてすたれていく。
それに代わる近代交通機関として明治初期に官設鉄道(東海道本線)が、さらにのち大正末~昭和初期に新京阪鉄道(現阪急京都線)が開業した。
茨木を北摂の主要都市へと導いた主な動輪は、この2筋の鉄路にはがならない。

大正15年地図
明治7年5月11日に大阪・神戸間に鉄道が開業し、同6年12月26日大阪・京都間鉄道着工。
明治9年7月28日大阪・向日町間が開通し、旅客輸送開業。茨木に駅が設置されたのは同年8月9日のことだった。
| 道標
右 茨木停車場 左 大阪 距高麗橋元標 四里廿四丁拾間
市役所前
|
新京阪鉄道というのをご存知だろうか?
明治43年4月15日に創業した京阪電鉄は「東主阪従」の経営首脳陣で、中央政界(政友会内閣)・官界(内務省・鉄道省)・東京財界と結合して、京都・大阪間の連結にのみ関心があり、沿線開発に消極的だった。
京阪間の交通を独占する志向が強く、淀川の東を走る本線とは別に大正7年4月16日淀川西岸線の出願を行った。
当初、本線の「野江駅」から分岐する予定が、免許の条件として大阪市内に新ターミナル駅を設置することとあり、国鉄城東腺高架化改築に伴う廃線敷地の払下げを受けて転用しようとしたが、大阪府・市が反対。
結局、北大阪電鉄(十三・淡路・千里山間路線経営)が淡路・天神橋間の免許を持ち、まだ路線を整備していないことから、大正11年8月12日に子会社化して、大正14年10月15日に天神橋・淡路間を開通した。
昭和3年1月16日に天神橋・高槻町間を開業して、茨木町駅が設置された。
同年11月10日に京都における天皇即位大礼が行われることから、11月1日に高槻町・西院間を開通し、暫定的全線開業。
同6年3月31日には地下鉄道路線としては関西最初の西院・四条大宮間も開通させた。

これにより、嵐山・京都・宇治・石山寺・坂本と京都・滋賀の観光名所を押さえた。
昭和4年には新京阪鉄道に続けて名古屋急行電鉄の計画もあった。
昭和18年には戦時交通統制により阪急電鉄と合併し、京阪神急行電鉄となる。
戦後は関西私鉄業界再編成で京阪は本線(淀川東岸)と京津だけとなり、元の新京阪鉄道は阪急の京都線・千里山線として存続した。
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- 2012/04/13(金) 07:00:19|
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 | 開館1周年記念特別展 連続講演会③
「X線写真が語る阿武山古墳の被葬者像」
牟田口 章人[朝日放送報道局プロデューサー]
平成24年3月31日(土) 13:30~15:00
今白塚古代歴史館2階 |
昭和9年(1934)4月22日に、京大の阿武山地震観測所で地震計を置くための縦穴を掘っていたら、石で塞がった穴の中に漆塗りの箱を発見。
志田順所長は「これは高山右近のキリシタンの至宝だ!」と、無理やり引き摺り出させて、観測所の塔地下の踊り場まで、中でゴロゴロ音を立てながら運ばせた。
箱がなかなか開かなかったので、バールでこじ開けると、中にはまだ顔の一部や髪の毛が残っていたミイラがあった。
志田所長は中を弄くり回して、ようやく24日午後に工事の者に元に戻すよう命じ、午後4時に京大の考古学教室に連絡。濱田耕作先生に指示されて、研究室員だった末永雅雄先生が到着したのは午後6時を過ぎていた。
末永先生が口に懐中電灯をくわえ、両手で棺を開けて頭で蓋を支えながら見ると、遺体と布きれが残っていた。
実は志田所長は島津製作所に要請して、レントゲン撮影機を持ってこさせて撮影させた。
昭和58年に、その時の模様を撮影した関戸信吉さんにインタビューすると、
試しに頭の上から順に撮影して、現地で現像したらうまくいったので、翌日から本格的に作業に取り掛かろうとしたところ、大阪府の役人と憲兵隊がやって来て、「君等がやっていることは不敬罪に当たる」と宣告された。
現像した写真を全部置いて撤収したので、後のことは分からないと云う。
志田先生は科学的な調査を進めようと思っていた。
ところが考古学教室はできたばかりで学内での発言力も弱い。
学内で連日協議するも結論がです、8月になって埋め戻すことに決定。

檜の外箱を拵えて墓に戻すことになり、8月16日に僧侶の法要の後、八瀬童子により埋め戻された。
その後、これまでの確執から志田所長は「この墓を考古学教室の連中には二度と掘らさせない」と、ありったけのベトン(コンクリート)を流し込まさせた。
志田先生は2年後に亡くなられ、皆はタタリと噂し、このことは昭和50年代まで京大ではタブーとされた。
ということは、志田先生の研究室にX線写真が残っているのではと思っていると、実は「開かずの部屋」があると云う。

昭和57年、観測所のその部屋を開けてもらうと、そのX線写真がそのままに残っていた。
実に半世紀ぶりにX線写真が陽の目を見ることになったのだ。
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- 2012/04/01(日) 07:00:11|
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 | 特別展連続講演会
秘匿された鎌足墓-阿武山古墳を考える-
森田克行 館長
3月25日(日)13:30~15:00
今城塚古代歴史館 2階 |

阿武山古墳は類例のない地下式墓だ。
土盛りもなく、厚葬の墓を隠して、どこに墓があるか分からない、秘匿された墓だ。
一方、茨木市に大織冠古廟という江戸時代から献上されている古い祠がある。

『摂津名所図会』 大織冠鎌足公荒墳
実際は将軍山古墳群の1号墳で横穴式の石室だから6世紀後半の古墳で、これを廟に仕立てて、石碑を建て、鳥居があって、階段がある。

その石碑「大職冠鎌足公古廟」に藤原道孝が明治初めに建てたとある。
摂関家の筆頭である京都の九条家が、茨木の墓に毎年鎌足の命日(10月15日)にお参りしていた。
『日本書紀』には天智8年(669)「十月辛酉 藤原右大臣薨」とあるだけ。
大化の改新など天智天皇と共にクーデターを起こした功労者の死について、記紀の記述はあまりに素っ気ない。
天平4年(780)、恵美押勝(藤原仲麻呂)が『藤原家伝』を書いており、そこに初めて「薨于淡海之第」と近江で亡くなったと書いている。
南家は鎌足の墓は山階にあると主張し、墓は自分の所領の山階にあるとする。
しかし、建久8年(1197)の『多武峯略記』で、不比等に大織冠の墓所が摂津国島下郡阿威山にあると答えさせている。
不比等の子、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)・麻呂(京家)のうち、次男の房前に三島の別業で鎌足の墓を守るよう口伝で伝えたのだろう。
ところが、房前の子藤原清河が遣唐使となり、客死してしまい、三島での北家の所領経営が断絶。
不比等の遺志は断たれ、所伝のみとなる。
そして、平安末期に九条兼実が安威郷に鎌足の墓を探して、将軍山1号墳を阿威山墓に見立てた。
高槻には藍(あい)の地名が失われ、茨木にのみ安威が残っていたところから藍野陵(継体天皇陵)は今城塚古墳ではなく太田茶臼山古墳であるとしたのと同じだ。
以来、この古墳を古廟として設えた。
鎌足は自分の意志で三島に墓を造った。
なぜなら、鎌足死後すぐに壬申の乱があった。
もし、近江や奈良に墓を造ったなら、壬申の乱で墓は暴かれただろう。
どちらが滅んでも大丈夫なように、大友皇子・大海人皇子の両方に自分の娘を嫁がせており、中立の立場を貫くことで藤原家の存続を図ったのだ。
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- 2012/03/27(火) 07:05:26|
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 | 開館1周年記念特別展 連続講演会①
「夾紵棺で結ばれた女帝と臣下の墓」
猪熊兼勝(京都橘大学名誉教授)
平成24年3月18日(日) 13:30~15:00
今白塚古代歴史館2階 |
40年前の1972年に高松塚古墳が発掘され、学際的な研究が進む中、誰の墓かが問題となった。
それまでは、地方豪族の墓として埋葬者の個人名を挙げないのが通例でした。
そこで、日本書紀の記述からある程度復元できるのではと考え、古墳に表札を上げようと提唱してきました。
実は昭和9年に阿武山古墳が発見された時、地元の天坊幸彦先生が鎌足説を唱えていました。
しかし、その後の考古学の研究者は古墳から墓誌が出ないと誰の墓とは言えないという傾向が強くなった。
太安万侶墓誌が有名ですが、これは奈良時代のもので、古墳時代には墓誌がない。
そういう訳で昭和62年に阿武山古墳を鎌足の墓だと改めて言ったところ、意外なところから反論が出ました。
黒岩重吾さんが新聞紙上で7世紀の土器が出ているから鎌足の墓ではないと言ってきました。
これは背後に森浩一さんが居て、黒岩さんに批判させていたので、直接言ってくれと文句を云うと「わしがいうたら、お前がどない怒るかわからん」と弁解していました。
もうおひと方は梅原猛先生で、「阿武山古墳を鎌足の墓だとは自分が先に言うてる。私の名も紹介せずに自分が見つけたようなことを書くのは学者の隅にもおけない」と京都新聞に投稿されていました。
お会いした時に「すでに昭和9年に天坊先生が言っておられ、先生が言われたことをご自身に当てはめてみては」と申し上げたところ、「そうなんだよ、私は名も無き人を蘇らした功労者だよ」と言ってました。
阿武山古墳の埋葬者を鎌足ではないなら、一体、誰の墓だというのでしょうか?
飛鳥時代、百済からの渡来人たちによって仏教、官僚制度、衣服を始め王族の柩にいたるまで百済にならった。
660年、唐と新羅の連合軍が百済の首都・扶余を陥落させ、百済を支援するため斉明天皇は、都を筑紫朝倉宮に移すも、突如崩御し、遺骸は海路飛鳥に運ばれた。
663年、中臣鎌足の指揮のもと倭国船団が白馬江で唐・新羅の船団に挟み撃ちに遭い、白村江は倭国の兵士の血で真っ赤に染まった。
百済から多くの人々を乗せた船が日本海沿岸に着き、彼らを近江、東国に移住した記録が残る。
これを境として文化のチャンネルが唐と統一新羅に切り替わり、唐文化が歓迎された。

夾紵棺(きょうちょかん)
百済の王陵の木芯乾漆棺は皇子級の柩とされ、「麻を漆で互層に接着した」漆技法の脱括乾漆の夾紵棺を採用した。
斉明天皇の次男・大海人皇子の妃である太田皇女も木芯乾漆棺に納められた。
白村江の大敗北で近江大津京の遷都となり、鎌足は山科に宅を設け、騎馬で逢坂山の裾を通って出任したのだろう。
中大皇子が即位し、狩を催した天智8年5月5日以後、鎌足の消息が途絶える。
落馬したらしく、半年後、天皇は山科第を見舞い、忠臣の姿に涙し、銀足は自分の戦争責任を詫びる。
皇太子・大海人皇子が内大臣、大職冠、藤原姓を贈る。

阿武山古墳
10月15日、藤原鎌足は死亡し、天皇はその忠誠に天皇クラスの墳墓を与え、墳丘ごと地中に埋設し、墳丘を築かなかった。
石室とともに土中に埋めた夾紵棺は、天皇が鎌足に対する強い恩賞であった。

X線写真
昭和62年、高槻市阿武山の京都大学地震観測所に残されていた阿武山古墳のⅩ線写真は、こうした事実を如実に記録していた。
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- 2012/03/19(月) 07:00:53|
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「私の水辺」大発表会 北部実行委員会 平成24年3月11日(日) 11:30~12:00
鈴木氏 安威川ダム建設事務所 イオン茨木ショッピングセンター
2010年8月20日に、大阪府の橋下徹知事は
安威川ダムの利水事業から撤退する方針を表明したはずでしたが、立寄ったショッピンギセンターで「私の水辺」という催事があり、ダム工事は再開の方向だというので聴講しました。

昭和42年7月の北摂豪雨では、2500戸の床上浸水、茨木市では死傷者が61名、河川堤防2箇所、橋梁13箇所が決壊、茨木川と安威川の合流の堤防、さらに安威川の堤防が決壊して新幹線の鳥飼基地まで水が流れた。
そこで、すこしでも危険を減らそうと計画されたのが安威川ダムでした。

水色が浸水地域 低地にある摂津市ではほぼ全域が浸水被害にあっています。

22年9月に付け替え道路が全面開通しています。ダムに水没する地域の代替地を結ぶ生活道路も兼ねています。
人に優しく環境にやさしいダムということで、環境アセスメントに充分配慮して、さらに詳細な調査をしなさいということで、自然環境に配慮をして工事をしてきました。
この地域ではオオタカの生息も見られ、繁殖期には工事をしないということで、オオタカの巣立ちを確認しています。
フクロウについても工事地域に離れたところに巣箱を設置したところ2函に産卵が確認されました。
大阪府の河川整備委員会で今の計画で良いということで橋下知事(現大阪市長)に手渡され、「そういうことなら早く造りなさい」ということで、国にも去年の10月に報告し、今は国の有識者会議の審議を待っている状態です。
実は2月に会議があったのですが、石木ダムの反対派が押しかけて流会となてしまいました。
4月には開催される予定です。
ダムの周辺にはステーションゾーンを造る予定です。

大阪府が非常食として備蓄している「安心米」が振舞われました。
登山でお馴染みのアルファ米(乾燥米飯)の五目御飯で、水や湯で戻して食します。
賞味期限を見ると2012.03とありました。
2010年には大阪府安威川ダム建設事務所まで出かけて説明を受けたのですが、その時は知事が中止と言っていた時期でしたので要領を得ないものでしたが、今回は多目的ダムではなく、純然たる治水ダムとのこと。
しかしながら、渡されたパンフは前回と同じモノです。
水余りの大阪府が利水から撤退したのですから、ダムも小さくなって当然と思われるのですが・・・。
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- 2012/03/13(火) 07:00:09|
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 | 梅花女子大学公開講座 第4回 「道」-歴史と文学- 熊野詣の風景―平安時代の貴族の参詣―
梅花女子大学 日本文化創造学科教授 馬田綾子
茨木市生涯学習センター きらめき
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藤原宗忠の日記「中御門右大臣」は1087年(応徳4)正月に始まり、1138年(保延4)2月に出家するまで書き続けられている。
その中で宗忠の熊野詣は、10月11日頃と推定される出京から10月16日までの記録が残っておらず、17日に紀伊国有田郡宮原着の記事が最初。
宗忠の京から宮原までの行路は不明だが、帰路は窪津(渡辺津)から京まで乗船していることから、行路も同様であったと考えられる。
本宮→(熊野川)→新宮→(海岸)→那智→新宮→(熊野川)→本宮と三山を巡礼し、熊野川を舟で下る以外の行路は基本的に徒歩。
当時、熊野へ行くには歩いて行かないと価値がないと考えられていた。
帰路は伝馬・手輿を利用、日数的には、行路が15日、帰路は和歌浦・吹上浜遊覧を含めて9日。
その他のルートとしては伊勢経由の伊勢路、海岸線を歩く大辺路がある。
1081年に熊野詣を行った藤原為房の場合は、出発前の何日間は、先達上人(観増上人)が解除し注連を張った精進屋で、日々沐浴し、魚味を食さないで過ごした。
宗忠の場合は三山諸を終えるまで毎朝沐浴を行い、京に戻るまで魚身を食さないでいた。
熊野信仰は、死後、極楽浄土に生まれ変わることを信じる浄土教の広まりを背景に広まったとされるが、個別に見ていくと、現実的な期待=現世利益を求めて参詣が行われていたようである。
宗忠の場合、「三種の大願暗に成熟するを知る」とあることから、現実の生活に関わる願いが実現すること願っていたことは確実である。
熊野へは、道筋に設けられた「九十九王子」を巡拝しながら詣でるものとされている。
この「九十九」は実際の数ではなく、数が多いことを示しており、実際の数も一定していない。
宗忠も参詣の途中で王子社に奉幣し、「件の王子、近代初めて出来す。その験あり」と、それらの出現は熊野権現の霊験をあらわすと考えられていた。
熊野では、鳥羽天皇の皇后であった待賢門院が1125年(天治2)に参詣したのをはじめとして、女院の参詣が目立つ。
『中右記』では、必ずしも高貴ではない女性の参詣も書きとめられている。
「社辺に盲者あり。田舎より御山に参る者。食絶ゆる由を聞き食を給う」と、宗忠は援助の手を差しのべているが、道中で女性や盲人などの弱者を援助することは熊野路のならわしであり、する者にとっては功徳を積むことであり「後世の資粮」とみなされた。
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- 2012/03/02(金) 07:00:20|
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 | 梅花女子大学公開講座 第2回 「旅」-歴史と文学- 追体験!!円仁が見た9世紀の大唐帝国
梅花女子大学 日本文化創造学科教授 三木雅博
茨木市生涯学習センター きらめき
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円仁が唐への求法の旅の一部始終を記録した日記『入唐求法巡礼行記』は、一人の人間が著した外国の旅の記録としては、マルコ・ポーロの『東方見聞録』などよりずっと古く、また日記形式なので記録も詳細で正確な点で、高く評価されている。
アメリカ駐日大使E・0・ライシャワーはこの日記の英訳本を出すとともに、『
円仁 唐代中国への旅』という著書を出版している。

円仁の旅の行きは遣唐使に同行し太宰府→長崎県松浦郡宇久島→揚子江河口の掘江付近に難破漂着し、遣唐使が滞在地として利用していた揚州にしばらく滞在した。
入唐時に当局に申請していた天台山への巡礼が不許可となり、失望したが、あえて帰国せず揚州に残留する道を選ぶ。
しばらく揚州にいると、天台山と並ぶもう一つの仏教聖地五台山への旅が、新羅の僧侶たちのネットワークを通じて可能になり、はるばる五台山へ巡礼の旅に出る。
五台山巡礼の後、首都長安に行き、そこで勉学や経典の入手を行いながら、次にやって遣唐使一行と合流して帰国しようとする。
長安で武宗皇帝が起こした大法難に遭遇し、還俗させられ命からがら多くの書物を携えて 長安を脱出。
新羅の僧侶や商人に助けられて、新羅経由で帰国の途につく。
円仁の入唐によって、膨大な経典類と詩文や史書などの外典が多くもたらされた。
天台宗は、これまで真言宗に大きく水をあけられていた密教についての体系的な学問を手にれることができ、その後の「叡山」の権威の基礎が固まった。
しかし現代の私たちから見れば、足かけ10年にも及ぶ中国での旅行・滞在の様子を日々記録した『
入唐求法巡礼行記』こそが、一番の貴重な贈り物である。
正史や、小説・説話類でしか見ることのできない、当時の唐帝国の生の実態が分かる。
ところが、日本の歴史学者でこの書物を研究している人は非常に少ない。
東洋史や中国の歴史研究者は日本人の著作ということで、逆に扱わない。
日本と中国の両国の歴史学者が共同して研究すれば、もっといろいろな、おもしろいことがわかってくるはずである。
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- 2012/02/17(金) 07:00:11|
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