3世紀ごろの『魏志倭人伝』には、男子は顔と体に文身をし、潜水をして魚貝を採ったとある。
縄文時代に文身習俗があったという証明はできないが、早くから土偶の顔面文様のなかには、文身の文様を表現したものがあるのではないかと考える研究者が多い。
縄文時代の土偶で文身を表すと推定されているものは、すべて中部以東の東日本から発見されているが、西日本での発見例が少なく、文身を表現しているとされる縄文土偶は見られない。
弥生時代には、土器、土製品などに描かれている人面画が関東以西にかなり広く分布し、この人面画は文身を表していると考える研究者が多い。
『日本書紀』「履中紀」と「雄略紀」の記事は墨刑であるが、「神武記」「安康記」「履中紀」に出てくる久米部、猪飼部、馬飼部の文身はもとからあったものだ。
人面画は弥生時代終末から古墳時代前期にわたって見られ、吉備・讃岐と尾張・三河に多い。
埴輪顔面のハの字形文様は東日本に限られ、線刻と彩色とがあるが、畿内型にはない。
これらのことから、弥生時代には文身習俗のある集団とない集団とがあったのではないかと推測する。
古墳時代になると、文身習俗を伴う集団はさらに少なくなり、特定の都民などに限られていたようである。
中国では、6世紀初頭まで墨刑が行われていたように、文身は刑罰か野蛮な習俗という見方もあったので、日本では中国との交通が増えるに従って、文身習俗がすたれていったのは自然のなり行きであろう。
古墳時代に行われていたわが国の文身は、奈良時代になると、まったく記録がなくなってしまい、江戸時代に文身が復活するまでの1000年足らずの間は、文身の習俗も墨刑もない空白の時代とされている。
江戸時代初期の文身には文字が多かったが、宝暦(1751~1764)以後には、しだいに絵を彫るものが増えてきた。
文化2年(1805)に刊行された滝沢馬琴の『新編水滸伝』は非常に人気があり、北斎によって日本流に龍の絵などが描かれている登場人物を全身に入れている。
寛政年間(1789~1801)には、寛政の改革によってすべての風俗が厳しく制限されたので、新たに文身を彫るものはなくなってしまったが、享和(1801~04)になると、文身はしだいにもとの状態にもどり、その内容も複雑になり、背から胸、腹、腕にかけて、浮世絵に劣らないみごとな絵が描かれ、技術も発達し、専門の彫師が現れた。
そして、伊達心、風流を目的とし、侠客、博徒、駕籠舁、火消などの間に流行した。
大化改新以来、長らく絶えていた墨刑が、八代将軍吉宗の享保5年(1718)2月17日、正刑として発令された。
入墨の形は藩によってさまざまで、筋や文字を入れたり、入れる部位にも、腕や額、片腕や両腕、あるいは腕と額の両方に入れるなど種々のタイプがあり、入墨によってどこで罪を犯したかがわかるようになっていた。
また、罪を重ねるごとに、腕の線を2本、3本と追加するなどの処置がとられた。
江戸時代後半には、「入墨」と書けば、刑罰としての文身を指し、「イレズミ」という呼び方も刑罰と間違えられる恐れがあるので、江戸では「ホリモノ」、関西では「イレボクロ」と呼んで区別していた。
文身の流行があまり激しいので、文化8年(1811)8月、幕府はついに文身を禁止した。
その後、天保年間(1830~44)に、ふたたび町触れによって文身が禁止されたが、おさまらず、明治以後になってようやく下火となった。
明治5年(1872)11月、違式註違条例、13年(1880)7月17日、刑法428条によって文身が禁じられた。
その後、内務省令で出た明治41年(1908)9月29日、警察犯処罰令では、いくぶん重くなった。
江戸時代の墨刑も明治の初めまで続いたが、明治3年(1870)9月25日に廃止されたので、「入墨」と「彫物」とを区別する必要がなくなり、以後「イレズミ」の名が一般名として使われるようになった。
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- 2012/05/19(土) 07:00:53|
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「天照大神と伊勢神宮の起源」という題の論文を発表したのは1951年のこと。
天照大神は崇神朝に宮中から笠縫邑に遷され、垂仁朝に伊勢に遷し祭られたというのが伊勢神宮の起源である。
私が垂仁朝における天照大神の伊勢遷祀を疑う理由は、第1に氏の神は氏の本拠または原住地で祭るのがふつうで、第2に大化以前の4、5世紀に天皇家と伊勢の間に深い関係が生じたとは思われず、第3に天武天皇に至るまで、天皇が伊勢神宮に参詣したとか、幣帛を奉ったとかの記事が『記紀』になく、第4に『紀』持統六年(692)五月条に伊勢が大倭や住吉以下の諸社とならべて列挙され、特別な神社という意識が強くない。
このような理由によって私は垂仁朝に天照大神が伊勢に遷祀されたとする『記紀』所伝を疑い、天照大神が5世紀後半ないし6世紀前・中期に南伊勢に祭られたことは認めた。
ただしこの時期の天照大神は、天皇家の守護神としての日神(太陽神)であることを本質とし、天皇の血統上の祖先である皇祖神の段階には達していなかったと考える。
太陽神としての天照大神を祭る神社は他にも『延喜式』に大和国城上郡の「他田坐天照御魂神社」をはじめ、大和城下・河内高安・摂津島下・山城葛野・丹波天田・播磨揖保・筑後三井・対馬下県の諸郡にある。
度会の伊勢神宮が唯一の皇祖神の社の地位を得て地位を高めたのは、壬申の乱において、大海人皇子を支持したことによるであろう。
概略以上のような見解を発表した。
近年になって再考を要する問題があることに気がついた。
天皇の近親の女性(皇女・女王)を代々伊勢に送る斎宮の制を途中で廃止するのは不審であり、天皇の権威・権勢が強大となった天武朝を受け継いだ持統朝において、天照大神を祭る伊勢神宮が地域の神とどうして同列に表記されるのか、という疑いである。
再考の緒口となったのは天照大神のほかに高皇産霊神もまた皇祖神ではないか、という問題である。
『記紀』がともに伝えるように、ニニギノミコトは天照大神の男子天忍穂耳尊と高皇産霊尊の女子栲幡千千姫(万幡豊秋津師比売命)の間に生れたと伝えられ、『書紀』の「天孫降臨」を語る神代第9段の本文には「皇祖高皇産霊尊」という語句さえみえる。
皇祖神がなぜ二柱あるのかという疑問に対しては、天照大神が南方系ないし土着系の神で、早くから政治的最高神として崇められ、後から北方系の高皇産霊神が朝鮮を経由してはいって来たとする解釈が有力のようである。
私は大阪平野に成立した政権を河内政権と称し、応神・仁徳両天皇の時代にはじまると推定する。
『記紀』の所伝や古墳の示すところによって考えると、河内政権が第1次ヤマト政権を5世紀後半に圧倒し、これを併合して宮都を河内からヤマトへ遷す。
『記紀』に伝える天皇でいえば、允恭ないし雄略のころのことと思われる。
ここに一つの政権に2柱の最高神という問題が生れるのである。
定説はないが、河内政権を第1次ヤマト政権とヤマトから河内へ進出した勢力が、河内で新しい最高神・高皇産霊神の信仰を持って、古い天照大神の信仰を保持する勢力の残っているヤマトへ本拠を遷したとみてもよい。
伊勢遷祀は、天照大神をヤマトの大王家とほとんど関係のない辺境の伊勢へ敬遠することが本当の目的であろう。
雄略天皇から継体の代になると、入り婿の形でヤマト政権を引き継いだ継体は、河内政権の最高神である高皇産霊神を取るのが自然で、古い政権の最高神であった天照大神が敬遠されるのは当然といえよう。
こうして継体がヤマト政権の新しい首長となると、天照大神はふたたび伊勢に遷祀されるのである。
天智朝まで伊勢へ天照大神に侍する皇女を送る慣例が絶えたのは、伊勢における天照大神の祭祀が、土地で盛んであった太陽神信仰と習合し、またそれによって度会氏など土地の豪族に奉仕されて安定し、ヤマトから皇女を送る必要がなくなったからであろう。
中央から遠ざけられ、左遷のように伊勢に遷された天照大神がふたたび大王家の祖神として尊ばれ、最高神の地位を回復するのは、672年に起る壬申の乱が大きな契機であった。
壬申の乱は皇位継承の争いで、反乱に成功した大海人皇子は、天武元年(672)9月、都を近江大津からヤマトへもどし、翌2年2月に天皇の位につき、4月に大伯皇女を伊勢神宮に遺すため泊瀬の斎宮に行かせた。
通説のように壬申の乱に際しての伊勢神宮の協力に対する報謝とみてよかろう。
このようにして天武朝以後、伊勢神宮の地位は上昇したに違いない。
こう考えることによって伊勢神宮の成立の歴史は正しく理解できるであろう。
しかし天照大神を祭る伊勢神宮が神社として最高の地位につくのは、奈良時代にはいってからのことと考えるべきであろう。
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- 2012/05/18(金) 07:00:11|
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世界で液状化に関する研究が始められたのは1964年の新潟地震がきっかけである。
新潟地震から数年かけて、液状化のメカニズムの解明と液状化の判定法および対策法に関する調査研究が行われ、それらの成果が地盤と構造物の液状化対策に活用されることになった。
しかしながら、それ以前に造成されていた埋立地盤や構造物にはほとんど液状化の影響が考慮されていない。
1964年の新潟地震においても、液状化地盤の流動によって昭和大橋の落橋や建物の基礎杭の破断およびライフラインの埋設管の被害が発生した。
昭和大橋は鋼管を川の流れと直角方向に1列に河床に打ち込み、この上に桁を架けた構造だが、液状化によって地盤の強度が大幅に低下し、橋脚が大きく変形して、竣工後わずか15日で落橋してしまった。
1978年宮城県沖地震では重油タンクの底版と側版の溶接部が破断し約7万klの重油が流出した。
1995年の阪神淡路大震災では、阪神地区の埋立地で大規模な液状化地盤の流動が生じてライフライン施設や橋脚基礎に多くの被害が生じた。
六甲アイランドのコンクリートケーソン式護岸は、液状化による土圧の増加と阪神淡路大震災の強烈な地震動によって大きく海方向に最大で5mも移動し、埋立地盤は大きく移動し、沈下した。
このような護岸の移動は神戸市を中心とした広範な埋立地で発生し、神戸港の港湾としての機能が大きく低下することになった。
また、液状化地盤の流動によって液化プロパンガスの配管の破損が原因で大量の漏洩が発生した。
東京湾の埋立ては江戸年間より始められたとされているが、その多くは戦後から現代にかけて造成されている。
液状化の危険性が最も危供されるのは、1964年以前に造成された埋立地で、コンビナート施設の多くは液状化対策がされておらず、現在でも何ら補強されないままの状態になっている。
東京湾臨海部のコンビナート施設のもう1つの大きな危惧は、長周期地震動による大型タンクの火災である。
液状化による防油堤と護岸の破壊により、タンクより溢出した内容物が海上に流出して、湾に拡散し、海上火災が発生する可能性も否定できない。
日本政府は川崎市沖の扇島地区に「基幹的防災拠点」を建設した。
これは、直下地震や南関東地震によって首都圏に大きな災害が発生した場合、他府県や外国からの救援物資と人員をこの拠点に海上輸送し、緊急対応や復旧・復興活動に活用しようとするものである。
しかし、以上に述べたような状況に陥った場合は「基幹的防災拠点」はほとんど役に立たないことになる。
さらに、東京湾臨海部には現在12カ所の火力発電所が稼働しており、首都圏のエネルギー供給が危機的状況を迎えることが予測される。
わが国の大都市圏の湾岸埋立地区の耐震性を向上させるため、液状化や流動の影響を考慮していない護岸や地盤の対策を急ぐ必要がある。
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- 2012/05/17(木) 07:00:53|
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坐摩神社の旧地は高安山山頂から昇る冬至の日の出遥拝地で、高安山の近くに天照大神高座神社がある。
高安山の冬至の朝日を受けて日の御子を生む聖地が坐摩の地で、この地は大隅宮・高津宮・長柄豊碕官・難波宮といわれている宮のあった場所に近接している。
問題は坐摩神社の場所に住吉大社があったことで、山根徳太郎は『難波王朝』で「住吉の大神と坐摩の神とは同体」と書き、「上代から中世を通じて、坐摩の神の鎮る社の所在した地域を、最初に住吉の示現し、祭祀を受けた場所」と書いている。
坐摩神社の氏子は白木(新羅)神社を祀っていた。
理由は新羅江庄の新羅系の人々が氏子だったからだが、住吉大社は坐摩神社の地にあって、住吉へ移っている。
西成郡には秦氏も居住しており、東生郡の比売許曽神社は新羅王子の天之日矛の妻を祭神にする。
西・東を冠した「ナリ(ル)」は韓国語では「日」の意味の「ナル」である。
東生・西成の郡名は天平年間(729~749)の文献にはじめて見えるが、太陽祭祀の聖地を意味する「ナルニハ」(→ナニハ)という地名があって、その地名に「東」と「西」をつけて呼称する過程で、「東ナリ」「西ナリ」になったのである。
『住吉大社神代記』には「三韓の国の調貢」は「吾君川より運漕ぶ」とあり、この吾君(あぎ)川は西成郡の長柄河(中津川)で、大阪城築造以前にあった坐摩神社は長柄川の南岸、新羅江荘は北岸にあり、近接している。
『古事記』は「アグ沼」のほとりで昼寝をしていた女に、「日虹の如く輝きて、其の陰上を指しき」と書く。
日女が日光を受けて(日神と聖婚して)日の御子を生んだこの聖地に、嘉永5年(1851)4月皇子の安産祈願を坐摩神社で行ない、その年の秋祭の日に明治天皇は生まれた。
慶応4年(1868)には明治天皇は坐摩神社に御礼参りをしている。
アグ沼の畔で日光に感精した女性は「赤玉」を生んだが、その赤玉を天之日矛が家へ持ち帰り、赤玉は「美麗しき嬢女に化り」天之日矛の妻になる。
しかしある日、「吾は、汝の妻と為るべき女に非ず。吾が祖の国に行かむ」と言って、密かに小船に乗って逃げ、難波に留まると、『古事記』の応神記は書く。
『古事記』は新羅の王子天之日矛の妻の話にしているが、『日本書紀』では加羅の王子都怒我阿羅斯等の伝承にしているが、この2つの伝承は同系で、新羅・加羅の王子の妃が比売許曽神社の神となっている。
このヒメコソ・アカルヒメは、比売許曽神社の外にも住吉郡の式内社赤留比売命神社が祀る。
現在は杭全神社の飛地境内末社だが、かつては住吉大社の末社で、新羅・加耶の王子の妻を祀る神社の祭神を住吉大社が祀っている事実は、住吉大社が坐摩神社と同体であることによる。
『住吉大社神代記』は住吉神を新羅を打つ軍の守護神として『日本書紀』の神功皇后新羅征服譚をさらにオーバーに書きたてている。
ところが住吉大社の神宮寺は「新羅寺」であり、住吉大社のある難波は特に新羅系氏族が多く居住する地で、新羅征服譚と矛盾する。
『古事記』は「神功皇后」という表記は使っておらず、新羅征服譚になっていない。
倉野憲司は岩波書店版『古事記・祝詞』の注記で、新羅王の家の門前に杖を立てた理由について、「住吉大神を新羅国を守護する神として祭り、鎮座せしめて、海を渡って、日本へお還りになった」と書き、「征服」でなく「守護」に行ったと書いている。
『古事記』は息長帯比売(神功皇后)の始祖を新羅王子(天之日矛)にしているのだから、新羅の国守りのために杖を立てたのであり、その杖は住吉大神の荒御魂の形代であるのは、新羅と深くかかわる神社であることからも、住吉大神が新羅の国守りの神としてふさわしかったのである。
正史の『日本書紀』が『古事記』が書かない「神功皇后」を作って、神功皇后が住吉神の加護で新羅を征服したという記事に変えている理由は、新羅に国を滅亡させられた亡命百済人の子らが『日本書紀』編纂に関与しているからだ。
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- 2012/05/16(水) 07:00:21|
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世界の海洋にどれくらい多様な海の生き物がいるのかという戸籍簿づくりをする海洋生物のセンサスプロジェクトに参加する国と地域が、それぞれの国の排他的経済水域の内側において、いままで報告された生物種について調べることになった。
日本では50人を超える研究者が集まり、文献に当たりながら手分けして数えた結果、日本のEEZ内の水城には記載種が3万3,629種いることがわかった。
日本のEEZ内の水域は全海洋の0.9%で、全球で知られている海洋生物は約25万種のうちの13.5%が生息していることになり、日本の周辺の海は世界で最も海洋生物相が豊かである。
3万3629種の内訳を、門の単位で比較すると、イカ、タコ、貝類などの軟体動物が8,658種と最も多く、次いでカニ、エビなどの節足動物が6,393種、魚類などの脊椎動物が4,330種、原生生物の有孔虫類が4,201種などの順で続いている。
日本近海の海洋生物が多様なのは、海底地形、海底の動態、日本列島の歴史、海水環境の多様さなど、さまざまな原因が複雑にからみ合っているからで、日本列島はさまざまな地層や岩石が、いわば魚の鱗のように細かく分布している。
こんなに複雑な地質分布を示す場所はヨーロッパでもアメリカでもごくかぎられたところしかない。
日本は太平洋やフィリピン海に面したユーラシア大陸縁部に位置するために、さまざまな時期にさまざまな場所でつくられた地質体が掃き寄せられ、また、形成されて、それらが細かく複雑に配置している。
複雑で小さく分かれた地質分布は複雑で多様な生物群を育み、露出した岩には浅いところでは海藻が繁茂し、さまざまな固着生物が分布する。
堆積物底にはその堆積物の性質によって特有の生物群が生息する。
日本列島の複雑な地質は複雑な海底環境をつくり出し、それが海洋生物の多様性を支えているのである。
日本列島周辺は、北米プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートという4枚のプレートから構成され、これらのプレートは相互に動いており、プレートが沈み込む場所に位置する島弧-海溝系では活発な地殻活動が見られ、プレート間のひずみが蓄積して地震が活発に起こる。
では、東北地方太平洋沖地震と津波は、大陸縁辺域の生態系にどのような影響を与えたのだろうか?
また、原発事故で放出された放射性物質はどのような経路で陸上や海底に蓄積されるのだろうか?
地震・津波から1カ月後に震源域に、またその後8月までJAMSTECの船舶を用いた調査が行われ、次の状況が推定される。
まず、地震発生時に深海底は激しく震動し、この震動と移動によって海底は割れ、亀裂ができた。
この海底の変位が大津波の元になった。
海底そのもの、あるいは亀裂から堆積層内に賦存していたメタンが噴出し、メタンの一部は細菌により堆積物表層近くで海水の硫酸イオンと反応して、硫化水素を発生させた。
また、2000~3000mの水深で海底地すべりが起こり、堆積物が海底に沿って、混濁流となって流れ下り、そのときに海底表面に住む大型生物をともに深いところに運搬した。
このような、大地震による地すべりの発生、乱泥流、深いところへの再堆積という擾乱サイクルは、数十年から100年単位で発生し、乱泥流によって底生生物が拭い去られる。
そして、拭い去られたところには、近隣の生物群が再加入する。
このような地震・津波による生物群の死滅、そしてその後の再加入、という生物群集変動が、東日本大陸縁辺部の海底では繰り返し起こっていると考えられる。
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- 2012/05/14(月) 07:00:43|
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かつて、律令国家時代の朝廷には神まつりをつかさどる神紙官という役所があり、そこにタカミムスヒ以下、八柱の八棟の神殿が設けられていました。
律令国家の宮中では天皇が居住する内裏と八神殿は離れていましたが、さらに時代をさかのぼるなら、大王の宮は「与に床を同じくし殿を共にして」というアマテラスのことばどおりの「同床共殿」「神人共床」の状態にあったと考えられます。
大王の宮以外でも「同床共殿」「神人共床」は一般的でした。
天武天皇が「畿内及び諸国に詔して、大社地社の神の宮を修理らしむ」と、国司に官社社殿の造営を命じ、「神人分離」の原則が徹底された“ヒモロギ系”の小規模なワンルーム空間の神社が大多数を占めることとなりました。
神社建築が諸国にひろがり、一般化していったのは官社制の普及にともなう出来事だったのです。
宮中にまつられていたもう一方の神、倭大国魂(やまとのおくにたま)は大和国全般をつかさどる地方神で、大物主は大神神社に、倭大国塊は大和神社にまつられています。
国つ神の総帥である大国主の和魂が大物主、荒魂が倭大国塊だといいます。
興味深いのは王と倭大国魂の相性が悪いことで、天皇は娘のヌナキノイリヒメに倭大国塊をまつらせたものの、国つ神をまつることに失敗してしまう。
自分をまつらないと国に崇りが及ぶとの大物主の御神託を受けた王は、大田田根子をさがして、大物主をまつらせるや国は平安になったといいます。
『日本書紀』の記述で、天つ神アマテラスへの祭祀が国つ神と同格になっているのは、いかにも軽い印象をあたえます。
官社制導入にともなう神社建築の発生の実態は豪族首長の居館でおこなわれていた神まつりを外に出し、“ヒモロギ系”神社として再出発させることでした。
「皇祖」アマテラスの祭祀が、屋内察祀→ヒモロギ→祠→神宮と変達する伊勢神宮の誕生譚は、まさに官社制の導入プロセスを理念的に説明しているとも読めます。
『日本書紀』は、アマテラスより早く、神武が最初にまつったのはタカミムスヒであるとはっきり宣言しています。
朝鮮半島との緊張関係のなか、高句麗に負けないためには、高句麗が奉ずるタカミムスヒ信仰の導入がもっとも確かな策となり、国内的には大王権力の一層の強化を図るものでした。
倭国の男性太陽神・アマテル御塊かタカミムスヒに変身を遂げるのに、そう障害はなかったと思われます。
477年、雄略は国家的最高神タカミムスヒをまつる祭祀場を伊勢に造り、それが伊勢神宮のはじまりでした。
タカミムスヒを国家的最高神として伊勢神宮にまつるにおよび、それまで大王が大和でまつっていた日の神・〈ヒルメ=日の女〉の神は、この最高神に仕えまつる日の妻になったのだと考えられます。
そしてタカミムスヒに仕える(ヒルメ=日の妻)を実際に演じたのが、雄略以降の歴代大王が伊勢に派遣した斎王でした。
『日本書紀』は雄略、継体そして欽明の代において伊勢にまつられた神をアマテラスではなく、「伊勢大神」と表記しています。
天皇の称号は天武・持統朝に成立しますが、天皇は神の子孫と位置づけられることにより、その実質を獲得します。
そこで、天武天皇は新しく皇祖神(=「天照らす日女の命」)を発案し、国家神をまつる場でありながら、長らく斎王不在の状態にあった伊勢神宮に「皇祖神」アマテラスを鎮座させることによって皇統の起源を明確にします。
そして自分の愛娘を斎王として派遣し、「皇祖神」をまつることを開始します。
天武は観念と現実の両面において「天皇」と「皇祖神」を実体化し、天皇直系-天武直系の子孫-による皇位継承に根拠をあたえ、これを確実にしようとしたのです。
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- 2012/05/13(日) 02:16:58|
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世界中で毎日何百件、1年では何十万件もの殺人事件が起きている。
フランスでは年間1000件、アメリカだけで年間1万5000件。
現代社会でもっとも殺人が多い場所はラテンアメリカで、ブラジルでは5万件、コロンビアでは2万5000件である。
それらの事件は、捜査や裁判の様子が広く報道されるが、たいていは数カ月で忘れさられる。
ほんのわずかな殺人事件だけが人びとの集合意識や書物のなかで生きつづけ、数年間、数十年間、さらには何世紀ものあいだ記憶されることになる。
1920年代未の「デュッセルドルフの吸血鬼」、1960年代初頭の「ボストン絞殺魔」、1970年代の「ヨークシャの切り裂き魔」、1976~77年の「ニューヨークのサムの息子」などの連続殺人者は逮捕され、有罪となった。
連続殺人事件は犯行そのものが止んでも、犯人が逮捕されないかぎり人びとに不安をあたえつづける。
連続殺人者は一定の期間を置いてひとりずつ殺害を行なうが、大量殺人者は一度に多数を殺害する。
1869年、パリ郊外でジャン=バテイストトロップマンは妊娠中の女性と5人の幼い子どもたちの命を奪った。
交通機関もまた大量殺人者にとって魅力的なターゲットで、1931年にはシルベストル・マツーシュカがたんなる快楽から急行列車を爆破し、24人の乗客を殺害した。
公共の場所で銃を乱射する精神異常の大量殺人者はアメリカにとくに多く、12人の犠牲者を出した1966年のテキサスタワー乱射事件から、1999年のコロンパイン高校銃乱射事件まで、アメリカでは数多くの銃乱射事件が起きている。
大量殺人者の記録保持者はハンガリーの伯爵夫人エルジェーベトバートリだ。
彼女は16世紀に、若い娘の血で入浴するため、650人以上の女性を殺したとされている。
被害者の数ではなく、犯行内容の悲惨さで人びとの記憶に残っている事件もある。
アメリカでは1932年にチャールズ・リンドバーグの幼い子どもが誘拐後、殺害された。
イタリアでは1902年にマリア・ゴレッティという名前の少女が殺害された。
殺害後の犠牲者に対する手荒なあつかいも人びとに衝撃をあたえる。
1981年にパリでオランダ人女子学生を殺害し、強姦後にその肉を食べた日本人学生の佐川一政は精神異常と診断され、日本に送りかえされたあと釈放された。
殺人事件に関して人びとの興奮がもっとも高まるのは謎が残る事件の場合である。
ひとつは亡くなった人が自殺したのか、殺害されたのかがわからないケースで、ふたつめは殺人であることはたしかだが、逮捕されて裁判にかけられた人物が有罪であっても無罪であっても、その判決に疑問が残るケースである。
最後に殺人者が特定されないケースがある。
1888年にイギリスのロンドンで5人の売春婦が殺された「切り裂きジャック」と呼ばれる事件の犯人についてはさまざまな仮説が存在する。
有名な殺人者は当然のことながら完全犯罪に失敗した人間である。
一方、歴史の中には完全犯罪を成功させた無数の殺人者が存在する。
彼らは捕まらないので、殺人者としての「名声」を得ることはできない。
おそらくそのことだけが完全犯罪に成功した犯人たちが受ける唯一の罰なのだろう。
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- 2012/05/11(金) 07:00:36|
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橋の下、公園、廃ビル、地下道、路上、救貧院、労働矯正施設、福祉宿泊所、孤児院、シェルターなどをねぐらにする人びと。
路上生活をしながら職を求めて街から街へ移動する人びと。
こうした成人男女や子どもたちには、浮浪者、渡り労働者、ロッジャー、飲んだくれ、放浪者、流浪者と呼ばれてきた。
現在、私たちはそれらを一律「ホームレス」という語にひっくるめている。
しかしこれは比較的新しい語で、たとえば「ニューヨーク・タイムズ」紙の索引にはじめて「ホームレスの人びと」が採用されたのが1983年のことだ。
都市は最下層の住民を冷遇してきたが、それは貧者を冷遇しておけば、支援をめあてにできなくなった者は低賃金労働に向かわざるをえず、底辺労働力の供給増と財政支出の節約になるからだ。
歴史上、貧者への懲罰的政策がもっとも際立つのは不平等が拡大する時期と一致する。
おそらく格差を拡大させる方向の再分配は、抑圧と同時に進行するのだろう。
植民地時代の救貧院は入居者に厳しい規則を課したが、それは現在のシェルターでも変わっていない。
起床も食事もベルの音で管理され、労働が課され、従わないと罰せられた。
数ある規則でもとくに厳しいのは品行に関するものだ。
1987~1995年にかけて、一度でもホームレスのシェルターを利用したことのあるニューヨーク市民は20人に1人に上った。
2007年の意識調査では、3分の1を上まわるニューヨーク市民が自分もホームレスになるかもしれないと心配している。
シェルターは宿泊者を朝6時に路上へ追い出してしまうため、暑くても寒くても雨が降っていても、ホームレスの多くがいられるところは公共の場所しかなく、公立図書館の屋根の下にはこうした締め出された人たちがいるのだ。
2005年に行なわれた「ホームレス・カウント」調査では、全米56の都市および郡における「目で確認できる」ホームレス人口は平均約0.5%だと報告された。
1999年の研究によると一晩のホームレス人口はおよそ70万人、年間で200万人、1985~1990年のホームレス人口総計が700万人という推計もある。
1990年代初期の調査では、人生のどこかで一度でもホームレスを経験したことのあるアメリカ人の割合は国民の14%という結果だった。
現在、専門家たちは「飢え」とは言わず、「食糧不安」と言っている。
これは米国勢調査局による「基本的な必要を満たすだけの食糧をつねに得られるとはかぎらない状態」という定義をさっそく採用したのだ。
米農務省(USDA)は2005年、3500万人をこえるアメリカ国民の家庭が食糧不安をかかえ、その期間は平均6カ月と推計した。
「セカンドハーベスト」によると、2005年に炊き出し形式のスープキッチン、配給型のフードパントリー、シェルターの食事を利用したアメリカ人は2500万人以上といい、これは週あたりでは400万人、全人口の9%が1年のある時期に食事に事欠いたということだ。
利用者のおよそ3分の1は子どもで、11%が高齢者だった。
全米規模では2004年、困窮者の食糧支援申請の20%は満たされずに終わっている。
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- 2012/05/10(木) 07:00:17|
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明応7年(1498)5月、ある噂が洛中を駆け巡った。
近々、鬼が現れて子どもを取って食うという。しかし、7歳以下の子どもは、男女身分を問わず清水寺あるいは革堂に参詣すれば助かるというので、人々は先を争ってお参りしているという。
この噂は、まさに貴賎を問わず、かなりの信憑性をもって人々の間に広まったようである。
15世紀前半、洛中洛外の各所には「子取り」が出没し、幼い子どもが次々と誘拐されるという事件が相次いでいた。
「子取り」の正体は、人身売買を生業とする人商人であろう。
幼い子どもが人身売買の対象となり得たのは、社会において子どもが重要な労働力の一端を担っていたからで、中世社会においては、「子どもの労働」なるものが存在し、労働力としての価値、ひいては売買の対象となる商品価値を持っていたということである。
その一方で、子どもが「悪瘡薬の料」「良薬」のために誘拐されているらしい。
『今昔物語集』天竺部には、人間の臓器が難病の特効薬とされる説話が2話収録され、17世紀初頭の古浄瑠璃「阿弥陀の胸割」もまた同様である。
人肉がハンセン病の特効薬であるという認識は、鎌倉時代中頃の成立である『高山寺明恵上人行状』に見える。
人骨・人肉などを黒焼きにした粉末、心臓・肝臓・脾臓といった臓器、脳漿・血液といった体液が梅毒・ハンセン病・肺結核などに効能があるとされ、治療薬として密かに売買・使用されていた。
明の李時珍が編纂した『本草綱目』の第52巻が「人部」で、人体の薬用となるものがあげられている。
また、病気の親のために自分の股の内などを切り取って食べさせる創股(かつこ)という風習が、孝の実践として中国の儒教社会に受け入れられ、この風習は絶えることがなかったようだ。
そして、臓器に関して言うならば、死体から採取した臓器よりも、生きている人間の「生き肝」の方が、より活力・生命力を内包していると考えるのは、自然な発想であろう。
そしてその臓器が、生命力に満ち溢れた子どもの臓器であるならば、なおさらである。
子どもが薬用としての臓器採取のために誘拐され、子どもの臓器売買さえ行われていた可能性も否定しきれないのではないだろうか。
子どもの臓器の生命力と神秘性をさらに追い求めるならば、母体の中で育まれる胎児に眼が向けられることになろう。
『古今物語集』に、平貞盛が身に悪性の癒傷ができたので、京の医者に「児干」という薬をすぐにでも使うのが良いと診断されたという話があり、「児干」とは「胎児の肝」である。
近々現れて子どもを取って食う鬼の正体とは、「子取り」にほかなるまい。
どうやら誘拐された子どもは殺され、その臓器が秘薬として使われているらしい……。
子どもを誘拐すること、ましてや子どもを殺してその「生き肝」を採取することは、殺人であり犯罪であった。
しかし、堕胎あるいは流産した胎児を薬用とすることは、決して違法行為でもなければ、タブー視されるものでもなかったと思われる。
「児干」は、切断した骨や筋を継ぐといった創傷の特効薬であり、いわば肉体の再生に効能があるとされたわけである。
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- 2012/05/09(水) 07:00:23|
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あのマグニチュード9.1のスマトラ島沖地震の3ケ月後の2005年3月、スマトラ島の近くで、M8.6の巨大地震が起きました。
M8台の地震がわずか3ケ月後に起きたことに、我々地球科学の専門家は仰天しました。
さらに、震源域の南方への拡大は7年後まで断続的に続き、2010年10月にはM7.7の地震、2012年1月にはM7・3の地震をそれぞれ起こしました。
スマトラ島沖地震の震源域が拡大した事実は、東日本大震災の今後の予測に役立ちます。
実は、日本列島の太平洋岸でも、過去に震源域が拡大した例があり、江戸時代の1677年、房総半島沖の海域でM8.0の地震が大津波を伴って発生しました。
延宝房総沖地震と呼ばれている巨大地震で、500人を超える犠牲者が出ました。
津波の堆積物の調査から、千葉県の太平洋岸に最大8mの高さの津波が押し寄せたこともわかっています。
そのため、今回の震災の影響として、震源域のすぐ南側に当たる房総半島沖での地震が非常に心配されているのです。
実は、北方に当たる三陸沖の北部へ広がる可能性もあり、その東には、巨大地震を繰り返し起こしてきた十勝沖の想定震源域が接しています。
実際ここでは、1952年にM8.2、また2003年にM8.0の巨大地震が起きています。
太平洋プレートという同じプレート上の変動である以上、南側も北側も岩盤が割れていく可能性は否定できないのです。
日本列島に暮らす我々は、スマトラ島沖地震の事例を参照して、いずれ必ず起きると考えて準備しておかなければなりません。
地質学では「過去は未来を解く鍵」と言います。
1703年に元禄関東地震(M8.2)が起きた35日後に富士山が鳴動を始め、4年後の1707年には、宝永地震(M8.6)が発生し、49日後、富士山は南東斜面からマグマを噴出し、江戸の街に大量の火山灰を降らせました。
今、富士山が大噴火したら、江戸時代とは比べものにならないくらいの大被害が出て、首都圏を中心として関東一円に、総額2兆5000億円の被害が発生すると予想されています。
マグニチュードは数字が1大きくなると、地下から放出されるエネルギーは32倍ほど増加します。
今回の東日本大震災の放出エネルギーは、1923年の関東大震災の約50倍、また1995年の阪神・淡路大震災の約1400倍にもなったのです。
内陸型の直下型地震は、時間をおいて突発的に起きます。
太平洋プレートと北米プレートの境界で起きる余震とはまったく別個に、内陸の広範囲でM6~7クラスの地震が散発的に誘発されるのです。
その結果、東北地方、関東地方、中部地方の東部では、これからも最大震度6弱程度に至る揺れが予想されます。
実は、「誘発地震」の直撃する地域の中でも最も心配な場所が、東京を含む首都圏です。
国の中央防災会議は、首都圏でM7.3の直下型地震が起こった場合、1万1000人の死者、全壊および焼失家屋85万棟、112兆円の経済被害が出ると想定しているのです。
今回の地震によって事実上、東日本の内陸部では首都圏も含めて直下型地震が起きる確率が高まった、と考えたほうがよいでしょう。
遠くの海底で東日本大震災のような巨大地震が起きると、「長周期」の地震波が陸地に到達します。
実際に東日本大震災では、周期2秒以上のゆっくりとした揺れが遠方で予想外の被害をもたらしました。
首都圏の超高層ビルは東日本大震災以上の被害が出る可能性が高いので、首都圏で10階以上に住むことはあまり安全ではない、と私は考えています。
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- 2012/05/08(火) 07:00:21|
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